§


「おおい、おーい。姉ちゃん、大丈夫かい?」

 頭上から呼ばれた声に、鉛のような目蓋をこじ開ける。泣き腫らしたせいなのか、頭がぼうっと呆けていた。

「おい、聞こえてるか? 呼ぼうか救急車」

 返答のない自分へ痺れを切らしたのか、あるいは心配したのか。ふ、と視線を上げてその声の主を確かめる。どうやら彼はここら辺の新聞配達員のようで、その表情から思いがけず止まったように見えた。
 その人は片脚を地面につけたまま、バイクから身を乗り出している。彼の手に持った新聞が目に入ると、朧げに「夕、刊……?」と傾げた。
 問われた配達員は「おお、喋った」と驚くように声を上げ、バイクごと後退させてから降りた。

「ああ、次の家に届ける夕刊だ。……だから姉ちゃん、そんなところに座って寝てたら危ないよ」

 そんなところ、と言われて薄目のまま空を仰ぐ。
 群青とまだらな白。まるで絵に描いたようなうろこ雲が、彼方遠くまで広がっていた。

 ──……あれ、路面店の路地裏、に入ったはず……。

 未だぼんやりとして。脳みその回転が鈍く感じられたが、最後に自分のいた場所だけは思い出せた。今回は記憶障害には陥ってはいないようだった。少しずつ意識が戻ってくる。ようやく背中への違和感に振り返れば、そこには落書きされた薄汚い壁などはなく。代わりにコンクリートの電信柱へもたれ、地べたに座り込んでいた。

 どうしてこんな道まで来てしまったのだろう。虚ろな瞳を揺らしながら、配達員の告げた意味がよくわからずにただコクンと首肯いた。彼はスマホ片手に何かを調べているようだったが、そこまで気に留めていられない。周りをじっと見やると、自分の身なりは今の季節には似合わず薄着のようで、片足が冷んやりとした。

「ところで姉ちゃん、靴が片方ないけど……家はこの近くかい?」

 冷えた足先の理由はこれか、と訊かれて納得した。身一つで路地裏へ駆け込んだせいなのか、所々に擦れた痕や土汚れがやけに目立つ。人にぶつかっても転んだ憶えはなかったのだけれど、知らぬうちに切っていたらしい。正直ここがどこかもわからなかったが、彼の言葉には肯定しておこうと再びコク、と。考えることを放棄し始めていた。

 そしてどこからともなく。──からから、と。
 遠く離れた道路から反響する、木を打つ音。
 随分と聞き慣れない、それでいて仄かに懐かしい、聴き心地の良い音。
 それと重なるように、「ありゃ」と配達員とは別の低音が耳に入った。

「あのぉー……すいません。それ、ウチのなんスよ。真昼間から呑んでたみたいで」

 ご迷惑をおかけしまして、と発する声だけが更に近くなる。配達員がその男の方へ体を向けた。

「ああ、お兄さんのとこの身内かい? 若い娘が夕方から酔いつぶれるなんて、危ないねぇ」

 気をつけるようにね、と言い残し、何事もなくすっと仕事へ戻っていく。

 すると男は「あはは、あとでよく言っときますんで」軽やかに返した。会釈した配達員はバイクに跨り、ブロロロ、と音を立てながら去って行った。そうして、配達員の背後にいた男が、目の前に姿を現した。

「さぁて。珍しい、珍しい。一体どうしたもんスかねえ」

 大きくなる声に、飛び込できた光景。徐々に意識が尖って、瞠目していく。
 追いつかない脳内処理。動悸は感じず、奥歯がかたかたと震えた。直前の、想い出したあとの恐怖だけが全身を支配した。

 ──まさ、か。

 来たる現状に慄き、強張る。夢か現か、今の自分はどこにいる誰なのか。もはや自身の同一性すら解らなくなる。「あ、……」驚駭が襲って声に乗らない。

 ──ここは、この場所は、

 白緑の縦縞帽子。目深に被る人物が、目線を合わせるように屈んだ。

「どーも、神野ゆかサン。こんなトコでへばってどうしたんスか? 随分と前にウチに来られた以来、めっきり顔を出してくれなかったのに」
「……っ、」

 状況を把握すると動悸が襲った。脳を鈍く殴られたような衝撃。全身がどくどくと脈打ち、心臓も脳天までうるさく緊張を高めていく。

 ──戻って、来てしまっ、た。

 そうはっきり理解すると、顔が歪んでいくのを感じた。自分はひどく醜い顔を曝しているだろう。
 苦しい、なにもかもが苦しい。かつての溢れる想いも、それを告げられずに断たれ自ら捨てた想いも、忘却し損ねたこの現状も。結果としてあの時の決断は無意味となり、水の泡となってしまったことへ、ぐっと喉がえずいた。なのに、瞬く間に真逆な感情が宿っていく。

 渇いた胸に残る、あの決心が一瞬にして揺らんでいく。対する目前の彼は、会話にならない自分を見兼ねてか、見開かれた瞳の前で掌をひらひらと振っていた。

「神野サーン、聞こえてますー?」

 参ったっスねぇ……と呆れたように薄ら笑う。鼓膜から突き刺さる音がズキンと響いた。

 ──そんな他人行儀で、神野さん、だって。

 そんな風に呼ばれたこと、一度もなかったのに。重いほどの恋着を呼び起こしていく傍らで、寂寥に帯びた情が空虚なこの体を震撼させる。何も返せず辟易気味に目を伏せると、両脚の至るところについた小傷が。つうっと伝う紅血が風に沁みる。ここまで来る途中に転んだのか、膝頭の擦り傷がヒリヒリと痛みを伴い始めて。現実意識を強めていった。

「……ちが、う」

 やっとの想いで紡いだものは否定だった。未だ体の同一性すら曖昧で、なんでこうなったのかはっきりと理解に及ばない。何を否定したのか自分でも明確にわからぬまま『違う』と口走っていた。けれどもその声は彼の耳に入らなかったようで、別の声を返された。

「やけに薄着でいらっしゃって、怪我まで負って。アナタに声をかけたのがたまたま善人だったから良かったものの」

 どこか冷ややか。外気温ではなく、その声音が。張り詰めたような空気。下げた視線は交わらない。目の前に存在するというのに一定を保つ距離が、この会話も馳せた想いをも阻んでいるようだった。

「……全く。魂は違えど性格は瓜二つなんスから」

 彼は首裏を掻きながら俯いた。

「で、今日はなんでウチの近くまで? ご用件は」

 ──やめて、そんな言い方。

 放つ声が、まるで刃物のように全身に降りかかる。それでも懸命に返答せねばと努めども、喉を通らない。『逢いたかった』『恋しかった』と一言二言、告げるだけなのに。きっと彼はこちらにいる本来の神野ゆかだと思っている。だからなのか、その誤解が怖くて、言えなくて。彼の振る舞いは歓迎のそれではないのだ、とひしひしと思い知らされていた。

「黙ったままじゃちっともわかりませんよ。……何しに来たんです、神野サン」

 刺々しい音。盾を掲げるようにそっと睨め上げた。
 帽子奥に潜む双眸は据わっていて、その鋭い眼光にあっという間に囚われる。逸らそうにも一度捕まると逃げることは許されない。

 ──そんな呼び方じゃ、なかったのに。

 怖れが絶望に傾き始めると、力無く放っていた掌を握り締めていった。

「神野さん」

 三度目に苗字を放たれた。直後、細く震える声が絞り出された。

「……神野、じゃない……わたし、違うんです」

 自己の相違を主張しては、彼に認めて欲しくて。ただただ「違う」と言い続けていた。
 声を発する度に、大粒の涙滴が溢れてきて、硬く握った拳へそれらが落ちていく。以前みたいに名前を呼んで欲しくて。出逢ってしまった頃のように優しい音で微笑んで。最期の時みたいにそっと肩を抱いて。望み続けた場所に辿り着いてからというもの、求め続けた慾ばかりが浮かぶ。欲してばかりでどうしようもないこの慾求は、もう止まることを知らない。

「何言ってんスか、貴女は神野さんでしょう」
「ですからっ……、違うって……!」

 何者か理解してもらえないことへ弱々しいながらも声を張り上げた。あなたに認めて欲しいだけなのに、この距離で声すら届かない。きっと解ってもらえるまでこの滴は止まらない。

「……では少し昔の話をしましょうか」

 ふっと彼の目許が緩んだ。

「以前、あなたに『最善を尽くす』と伝えたこと、憶えてます?」
「えっ」

 ──雨のように溢れていたものがぴたりと止んだ。
 それは確か。かつて疑惑を抱かれていた頃。旅立つ直前の地下勉強部屋で交わした会話、だったはずだ。どうして人違いを起こしているはずの彼が、今この話題を……? この発言を理解できずにゆかは眉を顰めた。

「……アタシに逢いにきてくれたんでしょう?」

 彼は申し訳無さそうに息を落としてから、告げた。

「ご無沙汰してます、ゆかさん」

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