§


 朽ちる景色。一瞬にして光が閉ざされた。
 散らばっていたパズルのピースが、ぴたりと嵌め込まれていく感覚。数々の出来事が走馬灯のように巡る。かつて断片的に入り込んだ映像は、明確な自身の歴史としてしっかりと脳に体に刻まれていた証拠だった。

 ──妙な、幻聴も、

 硝子に跳ね返される無機的な表情。きゅるきゅると音を上げ、ショーウィンドウに触れた右手が力無く地面へ落ちていく。呼吸は荒れることなく、むしろ息が止まったかのように緩やかだった。首を垂れると、鞄に付けた白い物が視界に入る。目に映るは友人から貰ったそれ。

 ──大事にしてた、御守りも、

 もはや思い出さないという選択は強制的に阻止されてしまった。蘇る、瞬く間に。この濁流に抗うことなど、出来る訳もなく。それらはまるで感染していくかのように鮮烈さを極めながら、身体中に飛び火していった。

 ──全てわたしの、大切にしてたもの。

 それでも懸命に。あれだけはだめだと言い聞かせた。なにもかも想い出したらきっと以前の自分には戻れない。けれど意に反して追憶が、刻一刻と精神を蝕んでいく。だめ、崩壊する。数か月の間、望んでいた記憶。今は、今だけは拒めたらよかった。なんて呆気なく儚いご都合主義なのか。
 陰りゆく心。落ち着いていた気息は次第に乱れ、息苦しさを感じると次々に異変が訪れた。

 頭が割れる。
 目が眩む。
 吐き気が襲う。

 そんな単純な身体の信号でさえも、反応が追いつかなくて。がくがくと脚が震えていった。

「……頭、いたい……」

 ああああ、唸り出る声。
「い、た……」うわ言のように呟いては、蘇っていく出来事が全身を震撼させた。こんな大通りで倒れてはまた救急搬送をされてしまう。脳裏で『記憶喪失』に至った経緯を思い出したら最後。動け動け、と念じた脚で路地裏へと向かった。しかし場所は街中の大通り、多く往き交う通行人で溢れ返る。
 流れに人熱れを感じる中、どん、と肩がぶつかってよろける。「大丈夫ですか?」と心配した女性の声に応えることも出来ず、逃げるようにして立ち去った。何度も転びそうになりながら、人気のない路地裏へ駆け込む。暗がりの建物と建物の間。スプレーで落書きされた小汚い壁へ背を預け、ずるずると座り込んだ。

「はあ、はあ」

 荒れる息。吐くごとに、ある情景が脳髄を溶かしていく。
 ふわふわと揺れる、透き通るような金糸の髪。拙い優しさと、不意に見せる男らしさ。あの花のような朗らかさは、時に綿毛のようでうまく掴めず、指先をすり抜けていくよう。

 ──浦原喜助という男は、架空の人物……のはずだった。

「……っ、」

 こんなこと馬鹿げている、だなんてどう言い聞かせても無駄だった。理解してしまった。
 自分の焦がれた相手は日記で得た『先生』なんかじゃない。あの日記は、あの持ち主は──。今にも割れそうに軋む前頭部を押さえながら、幾つもの想いを拒否しようとした。抗うことなんて出来ないと明白だというのに、『嫌だ』と胸中で言い続けるしかなかった。

 ──お願い、想い出したくない。あのひとは。

 いつも不可思議で、不器用で。
 それでいて誠実でどこか物想いに耽け。
 あまりに狡くて、慕うほど聡い。
 ──今も変わらない、私の大好きなひと。

「……あ」

 溢れていく。自ら手放した理由も、直前に下した決断も。なんのために忘却させて戻ったのかを。

 ──き、もち、わるい。

 数か月間、取り戻そうと躍起になって調べて。懊悩を重ねた結果がこの苦難。
 なんて有り様。一度戻ってきたものは止まる事を知らず、自ら手離した過去が一気に押し寄せた。
 最大に感じたあの幸福感が、べったりと憑依するように。

 ──あ、もうだめだ吐きそう。

 どくどく、鼓膜が波打って、ぐらり。三半規管が不規則に揺らぐ。

「……うっ、ぅ、え」

 口を押さえるも間に合わず、ぴしゃ、胃液に混じった少量の吐瀉物が目下の路へ広がった。目鼻や口から体液が、絶叫するかのように湧いて止まらない。自分は弱虫だから、出来た人間ではないからと。悲愴にくれる姿など成り下りたくないと願ったというのに。怖れていた事態に直面してしまった。胃のものを吐き出した後、水面へ這い上がるように息を吸う。

「はっ、は、」

 胸に手をあて、意識を正常に保とうとした。数々の情景が脳裏で駆け巡ると、今度は煌びやかな灯りに包まれていく感覚。これはいつかの幸せに満ちた日々。だがあの至福を思い描いた途端、それらがみるみるうちに恐怖へと変わっていく。何を怖れていたか、それすらも忘れていた。この世界で生きることを怖れていたのではなくて。あなたのいない不幸を知るなんて取るに足らなくて。最も怖れたのは、そう。

 ──過ぎ去った幸福が 戻らぬと知ること。

 皮肉なことにこの知恵を学んだのも、忠告を得たのもあの物語の中。それはある巻頭詩の一節に添えられていた。『不幸を知ることは 怖ろしくはない』のだと。ああこれで、これまでの辛苦が全て水泡に帰した。こう成ることを避けようと自ら逃げたというのに、頭で理解すればするほど、嗚咽が止まらなかった。これでもう二度と幸福は戻らない、あれには触れられない。あの瞬間が手に入らないことはわかっていた。わかりきっていたことを。忘却する事が唯一の救いだったことすら忘れていたなんて、もはや愚鈍でしかなかった。

 ──どうして、なんで、想い出しちゃったの。

 それは、着実に刺さっていく。柔い綿のような幸福たちが、鋭い棘へと変わっていく。

 必ずしも想い出は良いものとは言えないと、あの家を前にして学んでいたのにまた繰り返した。心臓が剣山で殴られているかのように抉られる。綿は綿のままでいて欲しかった、いつまでも綺麗な想い出で在り続けて欲しかった。記憶を取り戻してしまった今は、もう。その幸福に傷つけられていて。戻らぬ多幸がこんなにも未熟な精神にのしかかるとは、生涯、知りたくはなかった。ここに存在すらしないあの人との幸せなんて今更、幸福なんてもの、来なくても良かった。これが試練だと言うのなら、そんなものは乗り越えなくていい、そんな強さなど要らなかった。それなのに。彼と交わした最期の言葉が、消せども消せどもこびりついていて。

 ──『喜助さん、あなたの事は忘れるけど、忘れません』

 忘れてなんかいなかった、これっぽっちも。
 いなくなってなんかなかった、いつの瞬間も。
 きっと別れた瞬間から自分の心は明け渡したまま。空っぽになって戻って、今でも欠けた心はあっちに置いてきぼりなだけ。この悪念をどうにか放出しようと試みた。けれどあの日々はもう戻らないのだと知ってからは、ひたすらに口を結んで、静かに慟哭し、苦を生み続けることしかできなくて。悲鳴に変わる。あの人が幸せならいいじゃないか。それが本望だっただろう。そう思っていたじゃないか。なのに、なんで。あの人の幸せを願えば願うほど、こんなに心が荒んで、猛り狂わされるの。心底、心底、醜い。

 ──いまさら残りたかった、なんて。そんなこと言っちゃいけないから、ずっと、わたしは。

 両手でぎゅっと胸を押さえ、ぼろぼろと水の塊りを落としてはこの現状を悔いた。もう一人の自分のためにと、あの時に残された選択はひとつしかなかったから。沸々と迫り上がる身勝手な慾望が、別れの時以上に増していく。

 ──失くすことは惜しくない、って、あのとき言ったことはぜんぶ、うそで。

 底に澱んだ燈火。喉奥で呻るようなえずきを繰り返し、嘆息が千切れ、虚ろに浮かぶ。

「……自由になんて、無理だった」

 だってこんなにも足枷に縛られて。そうなろうと選択をしたはずができずに終わる。
『自由に』なんて望むのは簡単で、辿り着くには遠過ぎた。彼らがいたという証明はこの心だけ。この空の下、存在すらしない者たちへ何をどう足掻いても、もう望むべくもない。

 無慚に裂かれた胸が、頭部に脈打つ鈍痛を和らげる。
 落とした視線、乱暴に転がった鞄。お守りへ手を伸ばしそっと触れた。あの頃の淡い想いを馳せながら、声を殺して咽び泣いた。

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