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「どしたの、雨。ボクの部屋の前で」

 小休憩を終えて戻れば、廊下で雨がはたき棒を片手に立ち尽くしていた。

「ごめんなさい、キスケさん。あの、お掃除しようと思って……」
「なーんでそんな謝るのさ? お掃除ありがとう」

 雨の憂いの元が何なのか、喜助は首を傾げながら背丈を彼女に合わせて軽く屈む。
 すると、雨は部屋の中を指差しながら答えた。

「部屋へ入った時に、埃がかぶっちゃいけない、って近づいたら見えちゃって。……あれ」

 そう言って、指差した先に映るは見慣れていたリュック。
 喜助は目を細めながら「ああ」と納得すると、「ボクが埃かぶらないようにしてるから大丈夫」心配する雨の頭をぽんと撫でた。もうそんな年齢ではないかもしれないが、不安げな声に思わず手が動いていた。あの彼女が入れ替わってから幾つもの夜を渡り。雨も全てを言わなくとも察する年頃になったのだろうか。まあ聞かれたところで真実は言えないのだけれども。雨がああ言って謝るということは、きっとこちらに対して気を遣っているのだろう。余計な心配はかけまいと『何へ謝っていたのか』は聞かないでおくことにした。

「……あれ、ゆかさんの、ですよね……?」

 やはり気にかけていたことはそれだったか、と喜助は落としそうになる息を呑んで雨と向き合う。

「うん、そうだよ。雨も感じてると思うけど彼女の霊力はなくなっちゃったからね」

 そこまで言っても雨は訝しげに困り眉を更に下げた。きっと思っている事はこうだろう。じゃあ何でそれを置いているのか、と。喜助はその憂いに向けて言葉を重ねた。

「……置いてることに意味はない、ただここで保管してるんだよ」

 こちらの答えに雨は「わかりました」と一言で首肯くも、その顔は曇ったまま。彼女の話で何を告げたら雨の心が晴れるのか、喜助は捻り出した情けを並べる。

「それに彼女は記憶も失くしちゃったから、ボクたちだけでも憶えていてあげようってね」

 わかった? 大口を開けて笑む。するとようやく雨は固く結んだ唇を緩ませて「はい、ずっと憶えています」と両手ではたき棒を握り締めた。そのまま何を思ったのか、「……縁側、お掃除しなきゃ」と一礼してから廊下の奥へ去っていく。喜助はその姿を見送りながら「ありがとっスー」そう労い、部屋へ入った。

 真っ先に向かうのは雨が気にかけていたあの荷物。長いこと自室の片隅に置いていたそれ。雨に告げた『ボクが埃かぶらないようにしてるから』は、安心させるための嘘でもなくただの事実だった。いつも同じ場所に置いてもなあと思い、久しぶりに場所を変えて気分転換を図る。模様替えと言うほど大袈裟ではない。ぼんやりと考えては埃をかぶる前に移動を、と畳から持ち上げると、ぽとり。音を立て何かが小さく跳ねた。

「ん? ……ああ」

 足下には見憶えのある白い小物が転がっていた。

 ──御守りか、懐かしいな……。

 久しぶりに目にしたそれは、別れたまま時が止まっている。そしてこの情も、あの時のまま。
 この荷物を持ち上げただけで落ちてくるとは。恐らく括り紐が千切れたのだろう。それを手に拾って目を細めた。同時に、紐が千切れるほど長い年月が経過したのだと深々と実感させられる。

 魂魄の入れ替わった今の彼女に到底必要のないそれは、付けられた先のリュックとともに自室で大切に保管していた。大切に、とはただ汚れないように程度の気遣いだったが、それでも自身の目から離れることは拒んだ。ずっしりと重みのあるリュックを別の四隅へ移動させる。それはドスンと音を立てて置かれた。その拍子で幽かに残った彼女の香りが鼻を掠めた。ごく僅かな残り香が脳を刺激する。その柔らかな、甘すぎない香りに、少しずつ体が強張り、凍りついていく。
 二度と戻ることのない時が一瞬で逆行した。気づけば喜助は、自ずとその口へ手をかけていた。

 ──……覗き見はさすがに悪趣味の域を越してますよねぇ。

 いや、それこそ何処ぞの隊長にまた『変態やん』なんて言われるな、と安易に想像がついて。これは確かにそうだな、と苦笑気味に手を止める。「はぁ」不意に落とした溜息は荷物を置いた所以ではない。喜助は解りきったその事実を素直に受け入れた。

 夜一と話題にした以来、この私物に近づくことは疎か、考えることさえ放棄していたことが。
 まだ年も幼い子供によって掘り起こされた挙句、今更になって押し寄せた。固く縛ったはずの鎖の蓋がいとも簡単に解かれていく。彼女はどうしているのだろうか、幸せな平穏を手に入れ日々を過ごしているのか。また記憶障害だなんだと言って気苦労を重ねているのか。その本心を誰にも打ち明けずに我慢しているか、それとも、涙を落とすまいと堪えているか。
 一度馳せれば、寄せる波のように。彼女の最後に見せた表情が蘇る。

 この荷物を前に屈んだまま、喜助は首を垂らした。そうして全く馬鹿なことをしたと、己を叱責しては、抗えない疼きを認めた。どうしようもない胸の内に自嘲すらできず、とうとう諦めた。

 ──本当に……愚行が過ぎるな。

 今、彼女の荷物を開けようとしたことではない。
 前、彼女を元いた世界へ帰したことでもない。
 それは始まりからこれまでの、いることが当然となってしまった自身への嘆き。慈しむような灯りを憶えてしまったが故に、最期に尽くした策。あの時彼女が記憶を消したいと言うことは想像に容易かった。だから細工を重ね、講じた策。弱く脆い、それが一番最初に感じた彼女なのだから。

 ──彼女が気丈に振る舞い、最期まで強がっていたこと。それに気づかないふりをしたのは最善に努めるためとはいえ、随分なエゴっスよね……。

 ああ解っている、と他者に告げるように。喜助は掌を開き、握りしめていた御守りへと視線を落とした。今度は長い息が鼻から抜ける。『想う気持ち』は強力だからと彼女の言葉を断絶した矛先が、まさか自身へ向けられるとは。皮肉なものだな、と呆れては「はあ」と吐きだして。息ばかり落とす自分へ、喜助はいつかの記憶の中から『深呼吸です、しんこきゅう!』と口を尖らせた彼女の膨れっ面を重ねる。ごく自然に声が沁みていくと『本当、勘弁してくださいよ』とそれへ返すように喜助は乾いた笑いを落とした。

 ああ胸につかえるものが邪魔をする。……いてくれたら、それで良かった。ただ隣に、あはは、と笑うだけのヒトがいてくれたら、それで。充分だった。前でも後ろでも遠くでもない、ただ隣に。
 何故、どうしてこの人なのかと何度も訊ねた、何度も。だが答えは得られなかった。
 砕けた桃源郷の破片を戒めるように、胸の奥底へと追いやろうとしても、消せない声。

 ──……ゆかさん、あなたがあの時、告げようとしていた言葉。

 彼女に言うなと断ったその先が。

 ──それを今さら。訊きたい、とでも。

 窮するなんて全く愚かで滑稽だ。それが真実かすら今となってはもう知ることができないのに。けれどもし今もなお有効なら、そしてこの身勝手が許されるのなら、もうなにも厭わないのだろう。

 ──……まあ実際、施したモノに確証はないんスけどね……。 

 ある種の賭けを頭で思い浮かべながら、千切れた御守りへ再び目をやる。賭事と喩えたくせに映るのは切れた括り紐。これではまるで不吉の前兆なのではとも思えば、ミサンガのように切れた時に成就するそれなのかもしれないなとどうでもいい思案を巡らせた。あれを成就とは些か語弊があるだろうが、あながち間違いでもない。喜助はこの行き場のない塊りを吐こうにも呑み込むしかなかった。いや、そもそもこれは彼女の私物だ。そうやって考え込むうちに熱りが冷静沈着に返る。

 しばらくは考えない方が良い、と喜助は千切れた紐を元の場所へ括り直した。

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