§


 安息に満ちた生活は時の経過を忘れさせてくれる。
 友人とお参りした日、あの夏からもう二年ほどが過ぎた。祈願の効果はあったのだろう、頻発していたザッピングの現象も年に数回程度に減り、不調を心配する事はめっきりなくなった。

 月日が流れると、仕事も順調に。同僚との関係も、そんな事もあったっけ、と忘れ去られるくらいに良好へ。結局記憶が戻らなかった事実以外はなんら不便は感じない。昔に日記で見つけた『先生』を探すという優先順位は次第に低くなって、目先の仕事へ意識が向かうのは、一人暮らしをする身としてごく普通な日常となっていた。

 ──少しだけ失くなったままでも、今さら何の支障もないし。

 リビングから聞こえる立秋だの台風だの、季節柄なニュースを聞き流しては、目眩く過ごす日常。日の入りも早くなると、今年もすっかり秋となり。窓から色鮮やかな紅葉を眺めながら、せっせと夏服を箪笥へしまい衣替えを済ませていく。今日は休日。限られた時間の中ですべき事を片づけながら束の間の休息を満喫する。

『今日は衣替えをした。去年よりも秋の入りが早い気がする』

「……そして肌寒い、と」書き置きのような感想文。
 今もなお、日記だけは書き続けるようにしていた。いつまた何が起こるかわからない。急なことがあってもいいように。まあ無いに越したことはないのだけれど、と端的な事実だけを書き綴って、その日記帳を傍に置いた。

 ──これでほぼ済んだし。さて、ゆっくり本でも読もっと。

 あとは余暇をのんびりと。ソファへ座り小説を手に取る。
 完結した物語には、その後のお話やサイドストーリーの小説がいくつか出ていた。もちろん栞を挟んだ所はお気に入りのページ。頭の中で情景を想像しながらお話を読み進めていくと、手に汗握るような展開や戦闘、笑いを誘う科白の数々に幽かな感嘆が漏れる。

 ところが暫くすると。どこからか、ぽと、と見つめるページに液体らしき水滴が落ちた。雨漏り? 水漏れ? なんて瞬時に疑問を抱いたものの、比較的新しいマンションにそんな欠陥がある訳もなく。二、三秒経って直ぐに。これは水滴なんかではなく、自分の目から出たのだと気づいた。

「ええ……なんで、気持ちわる……」

 謎の生理現象に困惑する。もちろん読んでいる本の場面には、涙を誘うシーンなど描かれてはいない。むしろ先ほどまで薄ら笑いを浮かべていただろうに。すぐさま目頭を拭って無かったことにする。生理的に出てきたとしても、情緒不安定なのか、それとは別の何かなのか。記憶喪失時に感じたそれとは違う憂惧が尾を引いた。
 染みを作った箇所へ目を落とすと、残念なことに文字がじわりと滲んでしまっていた。あーあ、せっかくのお気に入りの本が。湿ったまま紙が歪むのは嫌なので、仕方なくぱたんと机に置いた。

 ──……すこし疲れてるのかな、屋内にいるから、かな。

 よくわからない涙を流した理由など深く考えたくもない。きっと遅れてきた情緒不安定なのだろう、と簡単に片付けた。もしかしたら目まぐるしい日々に鬱憤を感じていたのかもしれない。そう決めつけて気持ちを入れ替える。知らぬうちに気が滅入ったのだろうと納得させて。

 ──うん、そうだ。気分転換に散歩でもしてこよ。

 こういった時には、日中の陽に当たると身体に良いと医者から言われていた。過去の病院をたらい回しにされた経験を思い返した。けれどもう今はもう服薬しておらず、定期検診も疎かにしがちで。記憶が全然戻らないため医者の言うことなど然程あてにしていなかったが、たまにはそれに従ってみても良いかと、外へ出ることにした。

§


 いつかに貰ったお守りを鞄へ忍ばせた。そのついでに今日は下ろし立てのスカートを履いてみた。心なしか足取りは軽やかな、気がしなくもない。気分は上々のはず。ちっとも悄気てはいない。

 ──うーん、落ち込んではないんだけどなー。

 昼間に外へ出ると、路肩に植えられた木の葉が紅や山吹へと綺麗な彩りを飾っていた。下を見れば、朽ち葉が路を埋め始めている。さらさらと風が頬擦りすると、もう薄めの上着が欠かせない季節になったなあ、と四季の移ろいを実感する。散歩がてら街中の大通りへと歩を進めた。真っ先に目に入るのは硝子張りのショーウィンドウ。へぇ、今年の流行りはこういう柄なのかと見廻しては、それぞれのお店で冬季商品に力を入れている様子が窺えた。

 ──わあ、どこのお店も冬の展示でキラキラして、きれい。

 眺めているだけで心躍る。冬ならではのポップな音楽も心地良くて、本当にわくわくする季節だ。体質が末端冷え性で低すぎる気温だけが気に入らないだけで、冬は特に好きな季節でもあった。嫌いという感情になることは先ず無いのだろう。ほっこりした気持ちになるとなんだか嬉しくなる。少しずつ頬が緩んでいくのを感じて、こんな自分が情緒不安定で気が滅入っているなんてやっぱり勘違いだったと思い至った。数々の小綺麗な店が先の方まで続いていて通り沿いの華を飾っている。

 素敵なショーウィンドウが立ち並び、その中の一つを前に、──ふと、足を止めた。

 目に止まったのは、自分の格好とは縁遠い、可愛らしい女性ブランドの路面店だった。細身のマネキンがスタイルよく着飾っているそれに一瞬にして心奪われてしまった。人が行き交う雑踏の中。それを前に立ち尽くすとどうしてか、ぺた、と右手がその硝子へ触れていて。

 ──なんでだろう。私、知ってる、この白いコート。

 この服が欲しいだとか、好きだとか、そういう感情ではなくて。ただ、知っている。
 言いようのない混沌とした気持ちが戸惑わせた。

 ──なんだっけ、昔に同じようなのを貰ったなぁ、誰だったかな。……あの時は嬉しかったなあ。

 じんと胸奥が温かくなった、瞬間。

 ──ああ、そうだ。この服はよく似ている。
 ──喜助さんがくれた白いコートに。

「……あ」

 時の流れが止まった気がした。
 そのまま真っ直ぐに、真っ暗に。頑なに隠していた闇へのまれてゆくかのような。
 やがて煌びやかな街路樹は暗色に、軽快な音楽は無音に。瞬く間に世界が暗転していく。まるでこれまでが仮初めの居場所だと突きつけられたかのように、味気ない景色への淪落を感じた。

prev back next

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -