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 ──あっつい、なんでこの車はクーラー壊れたままなの。

 まだまだ日射しが照り返る今日。友人に「神頼みでもしたい」と一言告げれば、都を外れたところにある寺社へ行こうと誘われ、彼女の運転でここまでやって来た。そのため車の不整備に関しては口に出せず。窓を全開にしながら、この汗だくな環境を我慢していた。

 二人とも元々そんなに信心深くはないし、仏教だとか神道だとか深く気にしていない。けれど参拝するとすっと心が洗われた気分になる。女子二人旅というのは大概がそういうものだろう。それにお土産の品々を眺めると落ち着く。あの日はここでお願いしたんだっけと振り返ると、自分だけの思い出が蘇る気がするから。

「はーい到着。ここからは歩いていきましょー」

 さあさあ、運動! そう軽やかに下車する彼女に続くと、目の前は深い苗色が広がっていた。

 ──わあ、素敵なところ。

 最初こそ絶景だと息を呑んだものの、夏山の灼熱にその情趣は一瞬にして掻き消されていく。この山々に囲まれた小さな駐車場は、地上よりも一層けたたましく、凄まじい蝉の鳴き声に支配されていた。世間も恐らく夏休みだというのに辺りを見渡せど、車は一台、我々のみ。目的の寺社は小さなお山の上に構えているそうで、そこへと繋がる路は軽く百段はあるだろう石段だった。果てのない神様仏様への路を見上げては、「うわ」とあからさまに怪訝な声を上げた。確かに登るだけでいい運動にはなる。おまけに隠れ名所とあってか、厳かな雰囲気は神頼みにもってこいな場所。

 ──運動なんて、いつ以来かな……。

 まだいくつか服薬しているが、休日は適度な運動をした方が良いと医者から勧められていたこともあって悪い気はしない。ただ、この真夏盛りのお天道様がご機嫌で活発な日に来る必要はあったのか。幸いなことといえば、この階段は木陰の真下にあり、直射日光が当たっていないことくらい。

「……本当にこれ、登るの……」
「努力してから祈れば、神さまも褒めてくれるって」

 いや、今日は願いを聞いてもらいたいのであって、褒められに来たのではないのだけれど……との異は唱えられず。せっかく連れて来てくれた彼女を思い、深呼吸と共に気合いを入れ直した。はあはあ、と息を切らしては休憩を交えつつ、一段ずつ着実に登っていく。緑から降り注ぐ木漏れ日が度々眩しく感じるが、この崇高な雰囲気もあってか、暑いだの苦しいだの消極的な言葉は不思議と出てこなかった。そうしてもう一段、と脚を上げたその時。あの眩暈が襲う。

 ──あ、またあの声が、

 来る、それを確信した瞬間。真横に備えてあったステンレス製の手すりを掴んだ。ぐにゃり、歪む視界。「ちょっと大丈夫!?」慌てふためく友人の声が遠くに聞こえる、一方で、眉間を指で押さえながらコクンと首肯いた。だんだんと彼女の声が靄のようにぼやけていく。

 ──『はーい、一階もまともに上がれないヒトは、黙って担がれて下さいねー』

 友人の呼びかけを遮るように、聞き覚えのある男性の声がした。

 ──……今回は、こんなにはっきりと。

 一体なんなのかこの感覚は。自分の身体に何が起こっているのか。困惑した。肩が強張って、手すりを握り締めては身を屈める。

「しっかり! 聞こえる!?」

 彼女が同じように屈んで肩を抱く。どうしてだろう、彼女の問いかけが脳内の男性のそれと重なって訊こえて。
 ──それに対して返すとしたら、そう。

「ほら、駅の階段で疲れちゃうようなもんで……」
「……まあ、駅の階段は辛い時あるけど、」
「ん……あ、ごめん、大丈夫。変なこと言った、ごめん」

 一瞬。意識が混濁していた。何事も無かったかのように「気にしないで、ほんと」と今の違和感を隠して謝罪を重ねた。
 そんな会話がどこかであったのだろうか、いやそんなはずはない。そう勘違いさせる現象は、確かデジャヴと言うはずだが、感覚的にそれすらも不正解に思う。それに白昼夢と言えるほど幻想的でもない。記憶がない間の出来事なのかも、と眉を顰めた。けれどもそれを確かめる術もなく、更に困惑する。ではこれを告げたのは一体誰? 最初の声色は確実にあの男のものだ。存在し得ない彼の、それだ。でもそんな映像はない。

 ──覚えてないだけで、何か観たんじゃ。

 前にテレビのザッピングのようだと感じた瞬間と同様、これも同じ状況下で引き起こされた。不思議というより不可解だった。いや、単に階段と相性が悪いだけなのかもしれない。これは突拍子もない妄想、いつか見た夢なのだろう、きっとそうだと今は言い聞かせるしかなかった。

 ──人間の脳なんて案外信用できないからね。きっと夢だよ夢。それか妄想、うん間違いなし。

 錯覚や錯聴は脳が勝手にそう思わせているのだから、今回もその類いに違いない。思考がはっきりしてきた頃、ようやく眩暈が落ち着いた。友人が「今日はもう帰ろうか?」と腕を持って立ち上がらせてくれる。「ううん、大丈夫。ありがとう、ごめんね心配かけちゃって。せっかく来たんだし、祠くらいは拝んでこうよ」まだまだ行けるから、とケロっと返せば、本当に? と真剣に問う彼女の言葉を三度ほど肯定して、再び上を目指した。

「来ましたよ頂上! どう? 気分は」

 元気溌剌な友人とは対照的に切れる息。肩で呼吸を整えながら「はあ、うん。大丈夫、お疲れ」言って途切れる声。笑みを作る余裕はなかった。

「あ、あっちにお賽銭場所があるよ。拝んでこようか」

 目を向けた先には神社の拝殿があった。登って良かったと思わせるほどの神秘的空間。熱を帯びた疲労が飛んでいく。ああ、なんとも霊験あらたかだと、清々しい気分で汗を拭った。

「ここは地元では有名な神社なんだって。これできっと全部大丈夫だから」

 そう微笑む彼女は、自分の身を案じて調べてくれたんだと知った。拝殿まで足を運ぶと、彼女に鈴を鳴らしてもらい、二礼二拍手一礼をして拝む。

 ──無事に記憶を戻して、何事もなくみんなが健康に過ごせますように。

 健康第一、と心の中で何度も繰り返した。体が不具合だらけでは憂いは晴れない。それに自分だけの体ではない。今が在るのは、周りの支援があってこそだ。様々な関わりの中で存在できていることを忘れないよう、その人たちの心身健康を共に拝んだ。

「今日は連れてきてくれてありがとう。お願いごとしたらなんだか気分がリセットされたよ」
「いいんだって、ここは前から気になってたし。せっかくだからお土産とか見ていこう」

 友人の誘いにもちろん断る理由はなく、二つ返事で本殿近くのお宮へ向かっていく。
 いざ着くと彼女から「私が買ってあげるから」と迫られ、「そんないいよ」と何度か押し問答をしたのだけれど。結局「こういうのは自分で買うより貰った方がいいんだって」との後押しで妙に得心させられて終結した。

「すみませーん、このお守りくださーい。あ、あと御朱印もいただけます?」

「合わせて千円お納めください」

 中の巫女さんへそれを納めると同時に御朱印帳を渡していた。御朱印が仕上がるまで少々時間を要すとのことで、近くにあるベンチへ腰を下ろした。

「はい、お守りプレゼント」小さな紙袋に入ったものを渡されて「ありがとう」と取り出す。掌の上にころんと転がる白いお守り。草書のような崩れた形で『守』と刺繍されている。

「このお守り……なんか」
「あっわかった? それ似てていいでしょ」
「えっ。ああ、そう言われてみれば」
「あれ、ゆかならそう思うと思ったんだけど」
「うっうん。白い、御守り……」

 友人も好きだという物語で見たそれにも似ているが、それとは別に持っていた気がする。思い出せそうで思い出せない。このもどかしさと妙な不穏にはまた蓋をするしかないのだろうか。そんなことは折角頂いた手前、友人にはとても告げられなかった。

「一番の札でお待ちの方、どうぞ」巫女さんに呼ばれた友人が席を立つ。ベンチに一人残されると、手に握るお守りをじっと見つめた。何か思い出せれば、と目を瞑ってみた。目蓋の裏には、ある御守りが浮き上がる。でもそれは、直前まで目にしていた物ではない。

 ──……とても大事にしていた、はず。でもそんなの家にはどこにも。

 いつ、どこで。どうやって手に入れたものだったのか。
 そのもう一つの御守りを心に描いていく。すると、あの奇妙なざわつきが再び体を支配した。

 ──『御守り、持ってきておったのか。宝物なんじゃな』

 それが聞こえた途端、止め処なく別の声が流れ込む。

 ──『持ってますよ、随分と大事にしているものらしくて』

 あの声だとしたら、女性のそれも知っている人物だ。ただどちらも架空の人物。もちろん存在など、しない。何かがおかしい、何かよくないこ事が起こり始めている。

 ──『……御守り、持ってて良かったなぁって』

 紛れもない、自分の声。それを確信した途端。急いで下ろしていた目蓋を上げた。同時に、どっどっど、と激しい動悸が。伴う悪寒から唇が小刻みに震えた。

 ──なに、なに。もう訳が。

 打ち付ける鼓動に止まない声。終いには、身に覚えのない己の声までもが幻聴のように繰り返された。この薄気味悪い現象に、貰ったばかりのお守りを無意識に握りしめ、頭を抱えた。

「ねぇ、また顔色悪いよ。眩暈?」

 御朱印帳を手にした友人がベンチへ駆け寄って、膝を曲げる。目線を合わせてはとても心配そうに、大丈夫? と顔を覗いた。

「大丈夫大丈夫、疲れがきただけ。ほら、今日の私かなり頑張ったからさ」

 えっへんと胸を張る芝居をして、震えていた手をお守りごと背後へ隠した。思い出すことは暫く止めだ、もう考えたくはない。気分を切り替えるように「今日はありがとうね」と笑顔を向ける。

「ううん、元気になったなら良かったよ。早く記憶が戻るといいね! ……あ、見て見て。ここの御朱印が可愛いのー」

 安堵の色を浮かべた彼女は貰ったばかりのそれを広げてみせた。

「あ、ほんとだ。猫の印があるねぇ」

 かわいいね、と告げるとやっと自然に綻ぶのを感じた。差し出された彼女の手を掴む時にはすっかり指先の震えは収まっていて、そのまま勢いに任せ立ち上がった。

 ──もう考えない、けど。一応、日記には残そう。

 ひょっとしたら何か意味があるのかもしれない。記憶が戻ってくる未来でも、失くしたままの未来でも、順応できるように。記録することは決して悪にはならないだろうと。

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