目を開けると、再び木目の天井が目に入った。遠くから鳥の囀りが聞こえてくる。
いつの間にか寝ていた。昨晩の決心はまるでサンタを寝ずに待とうとする子供のようで、目覚めて早々悲しくなった。頭を動かしてみると、痛みは少し引いていた。彼の姿を探すように周りを見渡す。すると左側に見覚えのある帽子が置かれていた。あのあと戻って来て横にいたのだろうか。帽子を取るなんて珍しい、屋内では被っていないのか。気づけば彼の姿ばかりが頭に浮かんでいる。しかし実際は、憧れ程度にしか喜助について認識していないし、所詮は紙面上と映像でしか彼のことをわかっていない。結局は何も知らないのと同じだ。
──憧れは、理解から最も遠い、んだっけ。
こんな時に、憧れの人を想ってこの言葉を思い出すとは。別に知りたい訳じゃないし、と心で悪態をつく。そもそも、貴方がたを知っていました、なんて言ったらこのさき生きていけないだろうし、一般人として細々と暮らせていけたらそれでいい。結局は出逢ってしまったものの、特に理想もなければ希望もない。失望している訳ではなく、この世界での自分の在り方に悩み始めた。そんな事を考えているうちに、静かに戸が開く。
「おはよっス、ゆかサン」
考えていた人が、お盆を持って入ってくる。やはり帽子は被っておらず、その姿が新鮮味に溢れた。横になったまま視線を合わせるよう努める。だがなにをどう頑張っても、緊張する。
「あ、おはようございます、浦原さん。手当して下さって、ありがとうございました」
無難に苗字を呼んだ方が良いだろうと自然を装い呼んでみた。一護からもそう聞いていたし。
発音とか変だったかな、大丈夫かな、作り上げたポーカーフェイスは崩れていないだろうか。
起きて早々、様々な邪念が横入りする。
「色々聞きたい事もあるかと思いますが、まずは朝ご飯食べましょ」
読心能力に長けているのか、自分が考えそうな事は先手を打って言い出す。
その部分に関しては、自分の知識通りなんだなと感心する。
「ご飯まで頂いて、すみません」
助けて貰って、手当してもらって。迷惑ばかりかけている自分を情けなく思い卑下した。
「いいんですって。夜一サンにも言われたでしょう? 治るまで居ていいっスよ」
それは隊長時代に見たような、目尻の垂れた優しい笑顔で。自然と自分も顔が綻んだ。
喜助はお茶碗を手に取ると、左手を背中に入れ、ゆかの上半身を起こした。
「痛みは大丈夫っスか?」と確認しながら、ゆっくりと。
若干の鈍痛はあったものの、痛いですとは言えない。この距離に近い近い、と思うと無条件に心臓は早まっていく。だが彼の性格もあってか、初対面の緊張感は少しだけ落ち着いてきた。
されるがままの状態でいると、喜助が「よく頑張りました」と子供に言うかのように褒めてくる。
「はい、では。あーん」
「え?」
「ダメっスよー。あーんっス、ほら」
「……ふざけてますよね?」
「本気っスよ? まだ腕にも傷がありますし、自分で食べさせる訳にはいかないっス」
わかってはいたが、何処から本気で何処までが冗談か本当に掴めない人だ、と改めて認識した。
──この人って、一体……。
確かに理由は正当だ。自分の腕はまだ完治しておらず、意識すると痛みがじりじりと響く。
手や腕は肉が薄いせいか痛覚に敏感だ。諦めて堪忍する。
堪らず恥ずかしさから目を瞑り、「あーん」とは言わずも口を開けて待ち構えた。
しかし口内には何も運ばれてこない。
──折角やったのに、来ないんですけど……!
薄目を開けると、飄々とした顔の喜助と目があった。恥ずかしい、と共に腹立たしい。
「やり損じゃないですか。冷やかしですか」
「違うっスよー。フーフーしてたんスから」
彼は慌てた素振りを見せるも、もはや本当の事を言っているのかすら判断出来ない。この人の態度は、人間不信を助長させるのでは、と先が思いやられた。
「気を取り直して、はい」と音頭をとられると、自然に口が開いた。
酸味の効いたお粥が口内に広がっていく。
「梅干し、嫌いでした? 塩っけのあるモノを食べないといけないっスからね」
嫌いだと言った所で、食べさせる気満々じゃないか。まぁむしろ好物だから良かったものの。
「梅干し好きですよ。お粥、美味しいです」
ところが、二口、三口、と食べさせられると、もう満腹感が訪れた。
まだ体調は万全ではないらしい。
「あと、これ飲んで下さい。傷の治りが早くなる薬っス」
渡された小瓶には、髑髏のマークが。何処かで見た事がある、絶対に飲みたくない代物だ。
「ドクロ……。全く、信用できないんですが」
「だいじょうぶっスよぉ。疑い深いっスねぇ」
そうさせてるのは何処のどいつだと言い放ちたい。しかし実際に悪い思いをしていないので、意を決して小瓶を飲み干した。
「直にまた眠くなります。それまでお話相手になってもいいっスよ」
完全に子供扱いされている。確かに何百年と生きてる喜助にとっては生意気な小娘なのだろうが、それでも自分は間違っても小娘ですらない。
「わからない事は山ほどあって……。とりあえず、昨日助けてもらった時のことなんですが」
そう告げると、喜助は何かを考えながら「あー、」と遮った。
「その前に。『昨日』じゃないっス。時間感覚がわかっていないのかもしれませんが、襲われたのは一昨日の夜。即ち、アナタは丸一日意識がなかった。襲撃の翌日、夜中に目を覚ました、ということになります」
「え、」目を見開いて驚いた。まさか、丸一日寝ていたとは──。
襲われたのは金曜日の夜、上司と別れた帰り道だった。詰まるところ、土曜は丸一日寝ており、夜中に一度目が覚め、また寝てから今朝に起きたということだ。
「えっじゃあ、今日は日曜ですか!? 明日仕事なんです、帰らないと!」
自分は世界が変わっても社畜なのだなと、嫌になる。でもそれが事実だ。復帰したばかりなのに、また休むのは絶対に避けなければ。
「帰らせるわけにはいかないっスね。大丈夫っスよー。ちゃーんと環境は整えてありますから、暫く休んでもなんら問題ありません」
「それって、どういう……」
少し感情的になった瞬間、ぐらり、と劇薬の効力が。まだ話したいのに、そう思った時には上半身が前方に傾いていく。喜助の胸に倒れこんだ時には、ゆかはすでに寝息を立て始めていた。
そして、その一部始終を見ていた黒猫が人間に戻っていった。
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