縁側で胡座をかき、夜空を仰ぐ。この蒸した空気に堪らず扇子を揺らした。暫く外気に触れていると、汗ばむ時季になったなと巡り巡る季節を肌に感じる。
「珍しいの、煙管とは。……久しく見とらんかったな」
黒猫姿の夜一はその左隣へちょこんと前足を揃えて座った。ちょうど雁首を下へ、吸い口に当てた喜助は、味わうようにゆっくりと燻し草を喫む。そうして唇を離し。上を向いては、ふう、と薄ら開けた口から白煙を柔らかく吐き出した。揺らめくそれは初夏のそよ風とともに月夜へ登って消えていく。
千切れ雲のかかる月。もう少し晴れていれば情緒も増すだろうに、と喜助は細やかな不服を抱きつつ。「そういう気分なんスよ」と残る苦味を舌に感じながら、黒猫へそれとなく返した。夜一は雲陰る月に対して「ああ、そうか」と穏やかに目を細める。
「……夜一サンも、ここずっと猫の姿っスよね」
こちらの呼応にひと息吐いて「儂も長いことそういう気分じゃ」そう復唱するように。目先を灰雲の薄灯りから近くに聳える木々へと移していった。
「彼奴が居なくなってからかの」
夜一とは対照的に喜助はすっと目を伏せる。『彼奴』とは敢えて聞かなくとも二人の間では暗黙の了解なのだろう。けれどもあれ以来、ようやく初めて話題に触れた。それは、さよならさえも告げなかった彼女。特異な境遇に振り回された挙句、過ぎ去る嵐のように消えた彼女。
──いや、振り回されたのは、ボクの方か。
あの娘はしっかりと自身を律しながら生きていた。適応していこうと、順応せねばと彼女なりに努力を絶やさず。こちらの存在を一方的に知っていた事も隠しながら、苦慮を重ね。何も振り回されてなど、いない。そんな考え事をしていると煙を切らした。ああ、と喜助が再び煙管を燻らそうとした矢先、左下からの視線を感じてそちらへ顔を向けた。
「お主、彼奴がおった時は煙管を控えておったのじゃろう?」
振られた質問の本意は恐らくそれではない。自分から何を訊きだしたいのかと巡らせた時、ふと悟った。夜一は彼女の名を呼ばない。こちらに呼ばせたいのだろう。ならば望むままに応えようか。
「……神野サンの話、ですか?」
へらへらと薄ら笑い浮かべれば、溜息を落とした夜一が「陳腐な芝居など通じぬわ。いい加減わかっておる」そう言ってひと睨みきかせた。ハハハ……と苦笑でやり過ごそうとしたものの、さて何を伝えるべきか、と頭を捻らせた。
当時。数日経って尸魂界から戻って来た夜一には、彼女の霊力は突如として消え失せて記憶さえも失くなってしまった、と粗くも小話を取り繕ったのだが。どうやら夜一の口ぶりから察するに、あれは不出来な演技に過ぎなかったようで。
「他の皆サンには他言しないように言われてるんでね、あんまりはっきりとは申し上げられませんが」
言いながら、過去を思い返す。彼女から事実を明かされた時は、まさか、と思った。並行世界の話など仮説段階で予見していたのに。いざ目の前にして、あそこまで突拍子もない事柄を突きつけられると流石に信じ難いものがあった。だが、それを口にしたのは紛れも無く彼女。嘘は不得手に見える、自身がよく知っている信実で飾らない女性だった。
──あの状況で嘘など吐ける心理状態でないことは、僕自身が一番解っているじゃないか。
追い込まれた袋の鼠のように知られたくなかったことを吐露するのは、勇気がいったことだろう。
全てを了知するには複雑過ぎる出来事へ整理をつけようと、途中で止めていた煙管をくわえた。吐いた白煙と共に紡ぐ声は自分でも思いの外、気弱に感じられる。
「現在の彼女とウチにいた頃の彼女は、厳密に言うと別人でして」
口を切った喜助に対して、夜一は「わかっておると言うた筈じゃ。あまり儂を舐めるでないぞ」と凄みを含んでから鼻であしらった。流石は昔馴染みとあって、弁明も一筋縄ではいかないようだ。
「彼方から戻ってきた時に、お主の様子を見れば一目瞭然じゃった」
その声色は一変、どこか物寂しく響く。
「それに触れてはならぬのじゃろうと今日までを過ごしたが、いつまでもその様な面構えをされると殴りかかりそうでな」
そんなに酷い面をしていた自覚は無いのだが。鋭い爪で顔中を引っ掻かれるのは御免被りたいと喜助は早々に降参した。
「それは、スミマセン。ご心労をおかけしたようで」
「全くじゃ。急に彼奴へのあしらい方を変えたのも、異様に不自然すぎる」
魂魄入替え後、こちらの『彼女』にも霊力と共に記憶を失くしたという体裁で過ごさせていた。現に彼女には霊力の欠片も無い。状況を説明してそうすると決めた以上、自分からもそれなりの接し方を、と改めていたのだが夜一には不評だったようだ。
「ですがもう彼女はウチに用はないっスから、関わることもないでしょうよ」
霊力がないのであれば、接することも皆無に等しい。この先、襲われることも現世に漂う霊を視ることさえも無縁だろう。最初こそ、目覚めてから一番に言葉を交わした人物として謝礼を受けていたものの、平穏な日々に戻った今ではそれももう途絶えた。
「……神野は、どうしておるかの」
今まで呼ばなかった人物の名を、口惜しそうに吐いては懐かしんだ。
「いるべきところで彼女らしく過ごしてますよ、きっと」
喜助が涼しげな月を見上げると、夜一がぼそりと声を落とす。
「……妬けるな」
「なんスか、急に」
「儂にはその境遇は疎か、別れさえも告げなかったが。喜助には告げたのじゃろう?」
「ええ……まあ。妬けるって夜一サン、そういう目で彼女を……」
喜助はぎょっとした眼で夜一を見下ろす。
「阿呆か、彼奴は可愛い奴じゃったと言うとるんじゃ。その物言いから察するに、何も訊かずそのまま突っ返したようじゃな」
何も訊かず突っ返した、その真意は色事のそれなのだと瞬間的に理解した。色談義など毛頭する気がない喜助は「はてさて。何のことかさっぱりですねぇ」とけたけたと笑い返す。すっかり呆れ顔の夜一は「神野は最期まで不憫じゃったか」と同情の意を示していた。
──いえ、ちゃんと。彼女は告げようとしていた。それを訊こうとしなかったのはボクなんスよ。
この胸の内は吐露せずに。喜助は夜一の言葉に特に首肯くこともなく、遠くを見ては煙管を嗜み、そのほろ苦さと芳醇とした甘味を体に浸透させていた。あの感情から自身を遠ざけるように。
──『貴方は誰よりも幸せになって下さい。絶対にですよ。研究して長生きをして、いっぱい笑って、ご自分のために』
不意に彼女の柔らかな声が響いた。ゆるい風のような声音はしっとりと聴きやすかったと追懐する。久しく回想に浸ることなどなかったのに。夜一とこの会話をしたせいだろうか。喜助は告げられた願いに対して後ろめたさを感じずにはいられなかった。その『幸せ』には到底辿り着けそうにもないな、と自嘲気味に口許を緩める。
──それはこちらの言葉だ。貴女こそ、ご自分のために生きるべきなのに。
やはり、儚い幻想とでも言うべきか。
過ごしていた日々がまるで夢を見ていただけの感覚で、それをまた求めたのなら、もはやただの幻想なのだろう。頭の中では理解していても、もしこちらに彼女がいたら、なんてくだらない思想が邪魔をしてうんざりだった。
──いるべき場所へ帰ったんだ、こちらのことはとうに忘れてる。これが在るべき世界、何も間違ってはいない。
これが正解だと。正しい道を選んだはずなのにどうして泥む。夜一から触れられた彼女の話題に、胸底が蝕まれるかの如く淀んでいく。この濁りが意味することだけは認めたくはなかった。今もこれからも、この感情だけは掘り返すべきではないことは、重々わかっていた。
──ですが……すみません。アタシは情理を尽くしたつもりですよ。
いずれにせよ、甲斐性のない男には変わりはない。この邪な念を一層のこと切り裂いてしまえたら楽になるのに。そんな姑息な願いに反して、喜助は幽かな希望さえ抱いていた。
──それが貴女の決意を踏み躙る結果になったとしても。
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