§


 朝の身支度を済ませ、部屋の電気を消す。昨日も今日も、明日も変わらないルーティンな毎日。また平坦な日常が始まった。仕事をしないことには生きてゆけない。かさむ通院費。生きるだけですら苦行を強いられ、働かないと薬も買えないこの状況を哀れに感じた。

「いってきまーす」

 誰に伝える訳でもない惰性の挨拶は、玄関を開けると同時にむわっとした熱気へと消える。

「うわ、蒸し暑っ……」

 ついこの間まで、春の緑葉が芽吹いていたのに、外へ一歩出てみれば、けたたましい蝉の合唱が出迎えた。ああもうこの季節か、とうだるような暑さの中を最寄り駅へ向かって行く。歩く先々、アスファルトと接する空気は照り返した熱で歪んでいる。

 時折りすれ違う背広を羽織ったサラリーマン。彼らに同情を気持ちを抱きながら、ジャケットを必要とするような営業職じゃないだけマシか、と言い聞かせて片手で日差しを遮った。……とは言っても、暑いものは暑い。辛いものは辛い。掌で眩しさは防げても、降り注がれる直射日光。

 ──あ。日傘、忘れた。

 身体に熱を感じてから忘れ物に気づいたけれど、とっくに手遅れだった。
 とぼとぼと駅へ着いたところで、こちらの改札口にはエスカレーターが設備されていない。一刻も早く設置してよ、と内心で都政か区政かへの愚痴を零しつつ、一段一段を踏みしめて上っていく。
 ミンミンと狂い叫ぶ蝉が、まるで下から足を引っ張っているように感じてきた。ふう、と階段の踊り場でひと息ついて瞬きをすると、突然。妙な感覚が体を支配した。

 ──『……い、一階も……ヒトは、黙……れて……ね』

 変な言葉の羅列が脳に響く。耳から入った音ではなかった。まるでテレビをザッピングしている時に流れるような、途切れた声。何かの番組か? と考えると同時に、激しい頭痛がした。

 ──まずい、暑すぎておかしくなってきた、気持ち悪い。

 うっと嗚咽しそうになった時、咄嗟に階段へしゃがみ込んだ。危機一髪。階段を汚すことはなくなり、安堵しながらじっとりと滲む脂汗をハンカチで拭う。

 ──おかしな番組でも見たかなぁ、しかも変な声……また妄想かな。

 とても聴き覚えのある声質に、親友がよく言った幻だの妄想だのという指摘を思い返していた。彼女が遊びに来た春先にもそんなことあったなあと懐かしむと共に、酷い妄想癖だと呆れ返る。あの春一番の日からまだ数か月しか経っていないのに、中身はちっとも成長していなくて。

 体の調子が落ち着いた頃、ふと腕時計に視線を落とす。「げ、」と女らしからぬ声をあげて立ち上がった。ああもう遅刻だ、改札を急いで通り抜けて電車に飛び乗った。

§


 ──カチ、カチカチ。マウスをクリックしては、キーボードを叩く。という素振りをしているだけのこの業務。朝から体に鞭打って来た割には今日はこの程度の仕事で、あんなに頑張った意味はあるのかと思わされる。

 ──早く一日が終わらないかなぁ。暇疲れが一番辛いんだけど。

 一度でも長いと感じた日は、時の流れが凄まじく遅い。もちろん忙しい時もあるけれど、まだ復帰間もないとあって仕事量が滅法少ない上に、周りの気遣いが尋常じゃない。むしろこちらが、この状況は可笑しいでしょ、と訝しむくらいに気遣われている。

 復帰したての頃はまるで腫れ物に触れるかのような待遇を受けていた。正直ただの記憶喪失のせいでこの待遇に晒されるとは如何なものか。人間関係で不平不満を嘆いたことなどなかったのに、若干の疎外感を覚えていた。そんな考え事をしていると仕事をする振りを忘れてしまい、手の動きが止まる。あっと思った時、背後に人の気配を感じた。

「よう神野、どうだ調子は?」

 そう声をかけたのは、唯一自分を腫れ物的扱いにしないでくれている上司だった。

「大丈夫ですよ、もっと仕事を回してくれてもいいんですが」

 振り向きながら伝えると、上司は苦笑した。

「そういう訳にもいかなくてな、まあ話し相手にならなってやるよ」

 眉尻を下げる上司は珍しく、やはり自分は本調子では無いと思われているのかと悟った。

「こちらとしても、キーボードを持て余してたのでとても助かります」

 話し相手になってくれると聞いて、待ってましたと嬉々を含ませた。

「それより私、そんなに病的なイメージなんですか?」

 冗談交じりに問えば、上司はそれに笑うことなく答えた。

「お前、本当になんにも覚えてないんだよな?」

 この質問はこの数か月間でよく聞いたフレーズだ。耳にタコができるほどに。そして自分が答える言葉もまた定型句となっている。

「ですから、本当になにも思い出せないんですって。逆にその知らない部分を教えて下さい、私の脳を補って下さいよ」

 これに上司は周りの視線を感じたのか「ちょっと個室へ来い」と別室へ呼び寄せた。なにやら大ごとになってしまったらしい。直前までのふざけ半分だった態度を反省した。

 すたすたと彼の後をついて行く。会議室の重厚な扉を開けると、どこでもいいから、と着席を促された。黒光りする大きな椅子が並ぶうちの一つへ手を掛ける。よくお偉いさんの方々が踏ん反り返るような椅子だ。こんなことで部屋を使っていいの? と首を捻りながら従う。それに背筋を伸ばしたまま、ちょこんと浅く腰掛けた。その右隣に上司が座り向き合うように椅子をくるりと回す。

「仕事、の話ではないんですね?」
「ああ。だが仕事の話でもある」
「はあ」

 と深刻そうな状況を不真面目に受け入れて上司の言葉を待った。

「それでだ。これから話す事だが、神野の記憶喪失を治す手助けになるんなら、俺も協力しよう」
「是非お願いします。病院へ行っても変わらなくて、もうずっと記憶が戻らないと気持ち悪くて」

 上司は、だよな、と一言。背もたれへ寄りかかる。キィ、と反るとその視線だけこちらへ向けた。

「色々と忘れてるかもしれねぇから、先に言っておく。……お前の記憶障害はこれで二度目だ」

 驚きに目を丸めた。出そうとしていた第一声もひゅっと引っ込んでしまう。瞬時に上司の言う一度目の記憶障害を遡ろうとした。けれど、そもそも記憶喪失なのに思い出せることなど何もなく。この悪循環なループが歯痒くて、煩わしい。

「やっぱりな、誰も伝えてなかったみたいだな。そっちのことも全て忘れてるんじゃねーかって。だからみんなも不審がってた」

 こちらの表情で察したのか「まあ今回、救急でそのまま運ばれたんなら知らなくても仕方ないさ」とさり気なくフォローまで入れてくれる。「その一度目って言うのは」いつどこでどうなっていたのかと単刀直入に聞きたかったが、訊ねたい内容が多すぎてうまく声に出来なかった。

「確か、去年の秋から冬に変わる頃だったな。お前が急に職場へ電話してきて、営業がどうたら顧客がとか訳わからんこと言ってたのは覚えてるぜ」
「……営業、顧客……」

 彼の発した単語を呟いてみる。何かのきっかけになるかもしれないと信じて。

「なんか思い出せそうか?」
「いや、なーんにもです。ただ繰り返し復唱してみました」
「はは、復唱でもなんでもしてくれ」

 続けて彼は「ああその数日後かな。お前が復職して来たのは良かったんだが……」と過去の出来事を振り返りながら言った。

「神野のそれは珍しい、綺麗めよそ行きスーツ姿を拝見しちまってよ!」

 目の前で嬉しそうにニヤける男に「はあ!?」と声を荒げた。

「ちなみにタイトスカートな、膝丈の」
「他に伝えるべき話はなかったんですか」
「まあまあいいから聞けよ。関係あるかもしんねーだろ?」
「タイトスカートと記憶障害の関係性がかすりもしないんですが」

 お決まりの冗談だと決め込みその言い分を一蹴すると、上司が思い返しながら宙を眺めた。

「いやあ、妙な話でな。『以前はスーツを着ていて営業職だったのでてっきり』なんて真面目な顔してお前が言うから、すげぇ印象に残ってんだわ」

 スーツを着ていた営業職、なんだそれは。全くもって身に覚えがない。自分は新卒から転職もせずぬくぬくとこの職場に居座っている、はずだ。その事実は上司もご存知のこと。本当にそれは自分が放った言葉なのだろうか。もはや別人格が宿っているのでは? と思い始めたが、その検査は精神科や脳神経外科ですでに否定されている。

「あ。印象に残ってるって言ってもあれだぞ、あの時の会話が印象的ってだけで、たまたまその時の膝丈タイトスカートを覚えていただけでだなー。なにもやましい考えがあった訳じゃないぞー。膝丈タイトスカートが良いとか一言も言ってねーしなー、うん言ってねぇ」

 じっと考えている間、独り言のように彼はぶつぶつと呟いている。

「……この短い会話の中で膝丈タイトスカートって連呼しすぎじゃありません? セクハラで訴えますよ」
「待て待て! 過去のお前が履いてのは事実だが、今のお前は履いてねぇからセーフだろ!」

 こちらからじっとりとした視線を送って差し上げると、慌てふためく上司が「え? アウト?」と心配そうに問うのが面白可笑しくなって「ぎりぎりでアウトです」とお咎めなしとした。顰めた表情で「アウトかー」と狼狽気味の彼を尻目に続ける。

「……それで、その時の私は他に何か言ってました?」

 別の発言で何か思い出せそうなことがあればと訊ねるも、もうこれ以上の収穫は無さそうだった。

 すると、うーん……と暫く首を傾げた上司は、閃いたように「あ、そう言えば」と声を上げた。

「どっかの医者から日記つけろって言われたっつって面倒だが書いてるって言ってたなお前」
「日記、ですか」
「家のどっかにあるんじゃねーか? 忘れてたら探すのは大変だろうが」

 本当に記憶障害というものは厄介なもので。日記があるとの有力情報は得たものの、それ自体どこにあるかをまずは探さなくてはならない。

「いえ。ありがとうございます、帰ったら探してみますね」

 こうして性根の優しい上司との話し合いを終えた。この重苦しい会議室を後にして、彼を揶揄いながらデスクへと戻っていく。無事に日記を見つけられたら消えた記憶が戻ってくるかもしれない。そう思うと、不穏だった日々にようやく光が見えてきた。自然と足取りが軽くなっていくのを感じながら残りの業務に従事した。

§


 家に着いてからまずは夕飯の支度を。台所で爪先立ちをして戸棚を漁る。在るべきものがなかったり、いつ必要なんだと思うような調理道具があったり。日中の会話のせいか、普段ではあまり気にしていなかった些細なことが目につくようになった。

「ん……?」

 悩みながら手に取った一冊のノート。突然それらしきものに出くわした。いつもであればそのまま素通りするだろうこの日常も、今はそれが出来ない。「んー……」台所でおもむろに開けた引き出し。その内部の奥深くに、見慣れない薄緑色のノートが保管されていた。まだ中身を確認していないものの、まさか見られたくないものをこんなところに、あり得なくはないが。予想外な保管場所に自身の性格を軽く疑う。

 ──なんでキッチンに……これが上司の言ってた日記帳、とか。

 罫線が引いてある表紙を見る限りは、どこにでもある普通のノート。けれど、どこか真新しい割に使った形跡があった。ぺらぺらと開いてみると、どうやらそれっぽい。記憶不明期間の日付と文章が羅列されていた。
「あっ。あった」思わずお宝を探し当てた子供のような声を上げた。

 そのままソファへ座り、本を読む体勢に。指先に意気込みを入れて開く。見つけて安堵した気持ちと書かれた内容への不安がぶつかり合って、ゴクリと生唾を呑む。ああこれでやっと記憶が蘇るんだ、腫れ物的な扱いは受けなくて済む、そんな期待に喜びも大きくなって。

「……え、なに、」

 しかし。目に留まった文章には、初っ端から『前にいたところでは──』などと訳のわからない文面が所狭しと書き綴られていた。それを見て、気持ち悪い文だと思った。

 ──こんなのが記憶障害。

 日記というよりまるで別人の狂言。それほどに支離滅裂な内容に思う。とても自分が書いたとは思えないそれに、呆然としながらもぺらりと次ページを覗いていった。文を追っていくと数か月はあっという間に過ぎていき、季節の移ろいは儚く淡く感じた。そんな同一人物とは思えない『彼女』の文字列は最初こそ戸惑いや憤りが見られたものの、時が経つにつれて本来の日記に相応しい内容へと、言葉の端々が柔らかくなっていった。その中のとある日。とても嬉しそうな字体を見かけて、頬が緩んでいく。

 ──『12月25日、映画に誘われた。彼は忙しいのに』

 おいおい、これってデートじゃん? 自身の記録だということを忘れ、にやりと上がる口角は止められない。そうか、過去の自分も楽しんで過ごしていたんだなあと、もはや他人事のように読み耽った。にしても相手はだれなんだと気になって仕方がない。他の日で探してみたが手がかりが中々見当たらない。いくら覚えてないとは言え、自分自身のデート相手だ。しかもクリスマスという特別な日に、だ。結局ぺらぺらと捲っても明確な表現はなかった。けれど読んでいくうちに、その相手の男性をとても大切に想っていたことだけはじんわりと伝わってきた。

 ──『どれだけ通っても優しく接してくれる』『馬鹿げた話を聞いてくれる先生』……か。

 恐らく日中に上司が話してくれた、お医者さんの先生のことなんだろうなと直感で確信した。話を聞いてくれている先生、なんて職種は病院に通っていた事実を知っていなければ浮かんでこない。

 ──そっかぁ、私はきっとその人のこと……。

 身に覚えがない以前に、その病院へ通っていた過去も知らないなんて。当時の自分にもその先生にもやりきれなく、とても申し訳ない気持ちになった。

 ──いや、ちゃんと思い出したほうがいい。

 これを書いた時の自分のためにも、優しく接してくれていた先生にも。それに好きだった人をこうも容易く忘れてしまうだなんて。なんて自分は非情で薄情な人間だろうと背徳感にも似た後ろめたさに苛まれた。そうしてこの日記は、自分が路肩で倒れ救急搬送された日を最後に止まっていた。

 仮にこれが記憶不明な期間の全てだったとして、得たものは少なかったかもしれない。けれど、この場所でしっかりと地に足つけて生活していたことがわかっただけでも大きな収穫だった。

 ──いきなり先生を探して行くのは、自分は覚えてないんだし失礼だよねぇ……。

 きっとこのたくさんの診察券を手当たり次第、通院履歴を辿ればその先生にも出逢えるのだろう。だがこの状況で顔を合わせる気には到底なれなかった。全ての記憶と馳せていたであろう想いを取り戻してからもう一度会いにいこう、と。そう心に決めた。

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