かたかたと部屋の窓が音を立てる。もう春一番か、そう言えば昨日のニュースでそんな事を言っていたなあ、と寝ぼけた頭のまま欠伸をした。

 ──今日は遊びに来るんだったっけ、支度しなきゃ。

 ゆかは寝巻き姿のままベッドに腰掛けて「うーん」と両腕を上げながら、伸びをする。暦の上では春の訪れを示していても、まだまだ空気はピンと張って肌寒い。ぬくい毛布を名残惜しく感じつつ剥いだ。がた、と大きく揺れる音。その先へ目を向ければ、窓から見える遠くの新緑が鮮やかに映える。外の様子をぼーっと眺めていると、時折り激しいつむじ風に煽られていた。

 ──下の梅、大丈夫かな。

 マンションの花壇が心配になるほどの朝嵐。花が飛びませんようにと祈ってから寝室を後にし、薄手の上着を纏ってリビングへ向かう。ふわぁ……とまた欠伸を一つしてからつけるテレビ。すぐに背を向け、今日の天気を後ろで聞く。
「外出中、突風にはくれぐれもお気をつけ下さい」お姉さんの明るい声が流れた。台所でコップに水を注ぎ、ピルケースから薬を掌へ出す。最初は多いと拒んだ服薬の数。今では慣れたもので。ここ数週間は医者から言われたとおり、処方された薬を欠かさず服用していた。「ん、」きちんと説明は受けたものの、何に効いているのかイマイチ不明な薬たちをごくりと流し込む。

 自分には今冬の記憶がない。急に原因不明の記憶喪失を患ってしまったばっかりに。様々な科へたらい回しにされた挙句、心的ショックもしくは脳震盪による記憶障害だと診断された。体に外傷は特に見られなかったが、路上で倒れていたため救急車で運ばれ、そのまま暫くの間入院を余儀なくされた。

 ──お医者さんはここ半年の記憶はいつか戻ってくるかもって言ってたけど、全然その気配がないんだよねぇ。

 医者からの説明では、脳は酷い痛みを伴う出来事や強い心的衝撃があると、その記憶を勝手に無かった事にしてしまうと言っていた。恐らくこちらへの配慮もあってとても噛み砕いて説明してくれたのだと思う。ただ医者は絶対などとは職務上言ってくれない。それでも浅はかな期待を抱きながらテレビを眺めていた。ヴーヴー、テーブルの上で響くバイブ音。それに気づいて、急いでスマホを手に取ると、すでに友人が向かっているとの連絡だった。

 ──えっうそ、もうそんな時間!?

 慌てて洗い立てのシャツに腕を通し、いそいそと友人の訪問を待ちわびる。再び携帯が鳴ると、数十分もしないうちに彼女が到着したようだった。部屋の呼鈴が鳴ると同時に、待ってましたと扉を開ける。
 溌剌な彼女は第一声に「元気ー? 体調どうよ?」とまず体を気遣ってくれた。

「ぼちぼちかなぁ、何も変わんないよ。記憶だけが無いこと以外は健康そのものです、お陰様で」
「でも無事で良かったよ! 数か月ぶりに連絡あったと思ったらまさかの記憶喪失で入院なんだもんねぇ」

 それを聞いて、幼馴染にも数か月もの間音信不通にしていたのかと過去での振る舞いに心苦しくなった。

「だけど会社には行ってたみたいなんだよねー。ちゃんと体は覚えてたっていうか」
「社畜魂だけは染み付いてたんだねぇ、さっすが」
「ま、まあね。ハハハ……」

 リビングへ向かい「まあ適当に座って」と勧めれば、早速「お邪魔しまーす」と二人掛けソファの真ん中を陣取る。途端に彼女は何やら大変だという表情で髪を直し始めた。

「今日の風! やばいって! もうお外出たくない」
「ああ。春一番って言ってたし、窓もがたがた揺れてたからねぇ」
「毎年こんな強烈な風が吹かないと春は来ないんですか、もうお外出たくない」
「……いや外出たくないって、あなたいつも出る気さらさらないじゃん」

「私と同じ出不精でしょ」そう呆れ笑えば、友人は「うん、移動だけで疲れる」とソファにごろんと寝っ転がった。

「今日の風は特別強いらしいよ、そんな無理して来なくてもよかったのに」
「いや来る! てかやっと連絡ついたんだから来ない訳がないよ」
「あっそうか、そうだったねごめんごめん」
「だから今日はさー、わがままにさー、自堕落にさー」
「うん、わかったから好きなの取ってきなよ」
「わーい、助かりまーす!」

 彼女の好みは熟知しているので簡単なつまみを用意して、ご自由にどうぞ、とテーブルに置く。

 ──あれ、ひょっとして家、漫喫化してる……?

 見慣れた光景ではあるものの、ふと気づいてしまった。
 けれど昔からの腐れ縁ともあって、まあいいやと自分も読む物を取りに向かう。
 一方は変わらずソファで横になり、一方は人を駄目にするという巨大なクッションの上で本を読み進める。その間は音楽をかけることもなく途中で友人の「ふふふ」という薄気味悪いニヤつき声が漏れるだけ。

「……なに笑ってるの」
「いやここ面白いから読んで」
「どれどれ。あはは、あーここね、私も声出して笑ったとこ」

 二人してひと笑いして自分の読んでいた漫画へ視線を戻すと、ふと首を傾げた。

「ねーねー」ぺらり、とページをめくりながら友人へ問いかける。後ろから「んー?」と気怠そうな返事が聞こえたところで訊ねた。

「変なこと言うけどさー。喜助さんの戦闘シーンってもっとこう、凄いのなかったっけ」
「映画とかじゃなくて?」
「そういうのじゃないんだよね、もっと近い距離でっていうか」
「なにそれ。どういう意味かよくわかんないけど」

 ぺらぺらとページをめくる音が響き、彼女は如何にも無関心、といった感じだ。なんだか腑に落ちないので、この突拍子もない疑問を整理しようと一旦本をテーブルに置いた。

「なんていうか、実写のようで舞台でもない……感じ?」

 この説明に友人は、ギシ、とソファから身を起き上がらせる。

「それってさぁ、ゆかが見てた夢じゃない? 意識無くして倒れてた時にでも見てたんでしょ」

 そう諭されたものの、時折り脳裏に浮かぶそれはやけに鮮明なのだ。

「あーやっぱりそう思うよね。でもよくありそうな、遅れて颯爽と助けに来るような場面でね?」

 こちらの言い分に「いやだから、それ妄想。まぼろしだって」と冗談半分であしらわれた。友人は再びソファへ横になる。

「あったと思ったんだけどなぁ。そうか、幻かぁ」
「それに誰を何から助けてるのよ、その状況」
「いやそれが思い出せてたら苦労しないんだよ」
「でしょ? まぼろしー」
「幻かぁー」

 悄気ながら、ああ残念、と肩を落とすのは一瞬で。すぐにまあいっか、と置いていた漫画へ手を伸ばした。もう完結しているから未知な続編の映像など、現状を考えたらあり得ないとはわかっている。それでも所々で既視感のある妙な風景がチラついた。

「まぼろし、かぁ」

 ぼそり。無意識に落とした落胆に、すかさず友人が起き上がり「何回それ言ってんのよ」と呆れ気味に言い放つ。しつこく言い続けても気味が悪いと思われ兼ねない。これ以上はやめて閉口した。

 ──……へんなの。

 なんだか、違うサイズの服を着ているような靴を履いているような。しっくりこない心に不快感を覚えながら。その後は特にその話題に触れることもなく。こうして束の間の休日は自堕落に、それでいて有意義に過ぎていった。

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