──ああ。ほんと、きれいな。
相変わらずの無精髭で、と口許が緩んでいく。
「アタシに見惚れちゃったっスか?」
このニヤついた冗談も全部、胸に焼き付けておきたかった。けれどそれらを保持した先には、貴方のいない世界。
「そうですね、実に端正な顔立ちで感服しちゃいましたよ」
はははと笑えば、喜助が問う。
「……何か、別のこと考えてました?」
いやあ、本当にこの人には敵わないな、そう思っては目を細めた。
「さすがですね、バレちゃいましたか。実は、ひとつお願いがあって」
「なんなりとドーゾ」
これを告げることで彼がどう思うのかよりも、未だ知らぬ未来でどれほど自身が傷つくのかを恐れた。彼のいない世界で、これまでの想い出を背負って生きていくには荷が重すぎる。結局のところ、自分が一番大事で、傷つきたくなくて。この弱さが心底憎たらしい。でもそれが本性だって嫌というほど解っている。だから内に秘める意志はきっと英断なんだ、と強く言い聞かせて。
──みんな、喜助さん。ほんとうに、ごめんなさい。
小さく息を吸って、吐いた。
「私のここでの記憶を、消してもらえませんか」
生憎、最後の強がりを見せる余裕なんて、持ち合わせていないのだ。
彼に告げた、昔よりも心持ちが成長したというのは事実。けれど、それを越すほどの綺麗な心になれないのもまた事実で。この想いを、思慕を記憶したまま帰ったところで、きっと最後には死にたくなるくらいにこちらへ戻りたいと願うだろう。至福を感じた一瞬一瞬にもう二度と触れられないなんて、生きながらにして死んでいるようなもの。きっとその日々は暗色に視え、無音を聴き、無味乾燥な世界へと淪落する。だから、──。
「消してください」
繰り返す単調な日々に厭だと嘆くことはこの貪慾な性格を考えたら簡単に解ることだった。元々知らなければ、想い返すことも無くなる。ならば消去は間違いなく英断だ、そう唱えてから重ねた。
「この世界に来た日から今日までの全てを」
眉根を寄せた喜助は、ゆっくりと目蓋を閉じた。目を丸くするのかと思いきや、予想とは真逆の行動で戸惑った。そればっかりは断られてしまうのだろうかと。
「……やはり。そうでしたか」
「えっ」
「ご用意、できてますよ」
断るどころか先手を取られていた。こちらが考えていそうな事は先回りしておく、この行動はいつまでも変わらなくて。ここに来る前からも来てからも。
「ありがとう、ございます」
心の中では何度も何度も、謝っていた。何回も喜助に謝罪をしたのに、口から出てきた音は真反対なそれだった。最後のお願いを聞いてもらっているのに、謝罪の言葉を口にしたくはなかった。
──これで、何もなかったことに。
全てを無かったことにはしたくない、現実だった両方の世界を自身の中に閉じ込めたい、そう欲張りに願っていた頃は遠い昔のことで。ひとの心は廻りゆく季節のように流れていく。これでいいんだ、いやこれがいいんだと。揺らぎそうになる想いを押し込んで目を閉じた。
そしてそのまま、氷のように固く冷たい石壇に横たわる。
「では、術式を始めます。同時に記換神機を使用して記憶喪失という記録を入れ込みます。ですので、目は開けたままで。これから体の随所にパッチをつけていきます」
喜助から軽く説明を受けたあと、腕や足、首裏、頭部へと、医術で使われるような粘着性のある物体をぺたぺたと貼られていく。
「はい、お願いします」
これは記憶との訣別。
体内に蔓延る最後のしがらみを断ち切りながら、閉じていた目蓋を上げた。
──途端。開けた視界の真ん中、作業する彼の横顔が目に飛び込んだ。色白なそれを覆い隠すように垂れる、色素の薄い髪。横に跳ねる毛先は綿菓子みたいにふわふわと揺れていて、追いかけるように自ずと手を伸ばしていた。それはするりと指の間をかすめ、指先は宙を掴む。
「……柔らかくて、きれいで。蒲公英みたい」
ふと。想ったら声に出ていた。太陽ほど眩しく輝いてはいないけれど、仄かに燈るような優しい光。掴めない人柄は綿毛のよう。立派に咲き誇る道しるべに近づいていくと、あっと飛んでいってしまって、遠くの方へ消えていく。翳る中でぼんやりと。そんなことを考えては心に留めた。これが最期の記憶となるのなら悪くない終わり方だろう、そう胸に秘めながら。
すると喜助は驚いたように施す手を止めて。横目でこちらを見ると、綻ばせながら口を開いた。
「はは、アタシの髪が、ですか?」
「あ、そうですね。でもどちらかと言うと綿毛の方ですかね」
「どういう意味っスかそれ」
「ほら、触ろうとしても風で飛んじゃうじゃないですか」
「いやコレ被ってないんスけど……」
彼には意図が伝わらないようで、珍しく困惑する姿に面白可笑しくなった。
「あはは、そういう意味じゃないですよ」
「わかりませんねぇ、意外にも詩人ですか?」
「私、そんな的外れなこと言ってないですよ? ……まあ、その髪も含めて素敵だってことです」
微笑んで纏めると、彼は納得はせずともどこかで落とし所を見つけたのか、ふっと眦を下げた。
「そんな。ゆかさんの、その信実さには劣りますよ」
人から見た自分の印象なんてわからない。
けれど彼がそう言ってくれた。その事実が嬉しくて、儚くて。
「そんなこと、初めて言われました」
ふふ、と溢れる。それは自然に。頑張って笑顔で、なんて心がけることもなく。そう促してくれたのかと思うと感謝の気持ちでいっぱいになる。ただ恐らく、喜助なりの考えがあって告げた言葉。だから自惚れてはいけないけれどきっと彼はこう言うだろう、本心だ、と。
「本心っスよ」
ほら言った、と内心で喜ぶとついまた口が緩む。
「なんスか? 今日はやけにたくさん笑ってくれていいんスけど、こっちが名残惜しくなるじゃないっスか」
すっと目を細めてこちらを見る。翳る琥珀の瞳が一瞬だけ夕波のように静かに揺れていた。
「すぐに私は起き上がりますから、惜しくなんかないでしょうよ」
先ほどみたいに、それもそうだ、と言うのかと思いきや。彼は険しい色を浮かべた。
「……貴女は?」
「なにがですか?」
「貴女は、惜しくありませんか。記憶を失くして戻ることは」
再び彼の双眸が揺らめく。室内の仄暗さゆえだろうか。今度はその揺れに夕波のような柔らかさはなく、どこか冷たい。まるで荒波のような重々しい色を孕んでいた。
それでも喜助へ笑みを向けようとするのは、その表情を変えたい一心だけでなく、自分が帰ってもも安息の日々があるのだと解ってもらうためでもあった。
「はは、私ですか? あちらの世界だけで貴方を知っていたらもう充分なんです、だからご心配なく、ですよ」
事実。こちらでの生活を知る前は、物語の彼を目に触れるだけで心躍って満足していた。それはそれは毎日読み耽るほど。いくら言葉で説明しようとも、想像がつかないのだから理解し難いのかもしれない。
「浦原さんには申し訳ないですけど。ここでの記憶が無くなっても、充分に幸せですから」
過去に得ていた喜悦を彼にも自身にも言い聞かせるように、微笑んだ。
「だから惜しくはありませんよ、生きるべき場所で生きるだけです」
自分で放ったそれに、ふと平子がくれた『自由に生きられたら』という助言を想い重ねる。これがその答え。ようやく自由に生きる選択ができたのだと心に堅く信念を秘めた。そうして喜助は、こちらの答えに納得いっているのかそうでないのか判断し難い口調で一言。「わかりました」と記換神機を手に取った。
「では、これを見ていて下さい。今から体につけた装置で魂魄の移送を開始しますんで、ゆかサンは目を開けてくれれば大丈夫っス」
これを、と言われたものは見覚えのある四角柱を模った白い装置。映画で見るような遠隔操作の爆破装置にも似ていて、本当に不思議な品だ。喜助の親指がその上部に置かれている。この親指が下がれば一発。この記憶も、感覚も、感情も。全て無かったことに。
──これで私は貴方を忘れる。私だけ記憶を手放す、けれど。
本当は。本心が言えたなら。貴方だけは忘れないで、私を憶えていて、そう叫びたかった。
彼には先の多幸をとても願っている、心の底から。ただ、いつの日にか彼が愛しい誰かと巡り逢って、振り返る瞬間があったとしたら、そんな人間もいたなあ、なんて。少しだけでも。残す側の利己心が赦されるなら。ぎゅうぎゅうとその想いだけで喉が詰まるくらいに苦しくて潰れそうだった。……でも、そんな身勝手はとうとう告げられなかった。
あとは喜助から言われた通りに。記換神機から目を逸らさず、口を開ける。
「喜助さん、ありがとう。あなたの事は忘れるけど、忘れません」
白い装置の向こう、滲んでぼやける喜助の顔。だが目先はこの物体から移してはいけない。
奇異な体験の終焉。彼の表情を確かめることなく、耳だけを彼の声へと傾けた。
「ゆかサンもどうかお元気で、こちらこそありがとうっス。……生きるべき場所で貴女らしく、いつまでも」
出逢えて良かった、とゆかは呟くような声量で囁いた。
「あたしも貴女とめぐり逢えて、本当に、──」
良かった。幽かな低音が鼓膜に響いてから「さようなら」と小々波のような音が運ばれた。
ああ本当に、これで。もう焦がれることはない。
浦原喜助という男は、
外見よりも不可思議で、
振る舞いよりも誠実で、
紡ぐ言葉よりも不器用で、
何するよりも物想いに耽け、
誰よりも狡くて、聡い。
──私の、大好きなひとでした。
胸の中で、さよなら、と呼応して一思いに口を噤む。
その直後、込み上げる恋着の想いを掻き消すように、ぼわん、と小さな白煙が上がった。
同時に心の中で咲き誇った、白くも黄色い蒲公英は儚く散り。下ろされた目蓋から一筋の滴が伝っていった。
研究室特有の機械音とシグナル音がさんざめく。
目の前に横たわる彼女が意識を戻したのか、ゆっくりと目蓋を上げる。長い睫毛は上下に揺れ、目覚めの感覚を確かめているようだった。魂魄移送の成功を確信した喜助は『彼女が困ることだけは避けたい』とまるで遺言のように語ったあの娘を思い浮かべながら、静かに声をかける。
「どーもっス。ご気分はいかがっスか」
彼女の夢現な表情を見れば一目瞭然だった。これに返事を求めている訳でもなく、挨拶を重ねる。
「アタシは此処でしがない駄菓子屋の店主をしてます、浦原喜助と言います」
ぼうっと天井を見上げた彼女は上手く声が出せないようで、焦点の合わない瞳をこちらへ向けた。
「……はじめまして、神野サン」
色々訊きたいこともあるだろう、そう思った喜助は、こちらから話を押し付けるよりも、まず彼女への理解を深めることに専念した。
「宜しければ、アナタのことをお聞かせ願えますか」
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