そうして彼に手を引かれたまま仄暗い別室へと誘導された。喜助が先に入ると何やら作業を始める。部屋に数歩踏み入れて、そのすぐ後ろで足を止める。指先に篭っていた熱が消えた後、寂しさを感じる間もなく辺りを見渡した。
 商店の中にこんな機械だらけの場所があったんだと思わされる研究部屋。恐らく技術開発局経由の品々もあるのだろう。

「では、こちらに横になっていただけますか?」

 振り返る喜助に指示された。その先にあったのは、灰色の石壇だった。

「なんだか岩盤浴みたいですね、これ」
「あ、脱ぎます? それでもいいんスよ? いずれの方法でも戻れますんで」

 ただ冷たいままっスけどねん、と戯け笑う彼は揶揄っているというよりも、この会話を楽しみたいようにも見えた。これっきりの優しさを敢えて与えてくれているような。以前なら強がりを吐いていたこの口も、今では素直に冗談を愉しむことが出来る。胸の内に秘めていたほとんどを吐露したからなのかもしれない。ただ無情にも、そう自覚した時にはもう別れなのだけれど。

「……それは遠慮します。戻ってきた『私』に殴られますよ?」
「そりゃ物騒っス。あっちのゆかサンもお優しいイメージなんですがねぇ」
「裸で知らない人と対面したら優しさ振りまいてる場合じゃないですって」
「しかし、あちらのゆかサン。アタシのこと知らないままっスかね?」

 きっと話した全てを信じてくれた訳ではない。けれど本当に彼は頭の回転が早いなあと感心する。つまり。あちらの世界であの書物を読まれていたら、また同じ事が繰り返されるのだ。

「あー。それ、思ったんですけど。多分大丈夫だと思いますよ?」
「さて、その根拠は?」
「今住んでいる私の部屋にはあまり好みの読み物がないんです。むしろ映画や別のものばかりで」
「……ほう。では、嗜好が異なるから向こうの世界ではその書物に興味を示さない、と。それはそれで悲しいっスけど」

 向けられた眼差しは薄っすらと寂寞感を孕む。

「……浦原さんひょっとして。彼女には事前に知っていて欲しいんですか?」

 ちょっと不満気に顔を顰めた。

「なにもそんな怪訝な顔をしなくても。大丈夫っスよぉ、ちゃーんと初対面では粗相のないように接しますから」
「私の時はあまり粗相なく、とは思えませんでしたが?」
「あのーゆかサン、もしや。……いえ、なんでもないっス」

 そう言って喜助は口端を吊り上げながら、クツクツと喉を鳴らした。

「なに一人で笑ってるんですか? あ。絶対に私のことだ、なんか腹立たしいです」

 むすっと本音を告げると、喜助は眉をハの字にして笑む。

「貴女こそ。その素直さをあまり振りまいては意地悪されますよ?」

 素直、と言われ。喜助の自分に対する評価を初めて聞いた。今までずっとそうなれず悩んでいたことが多かったのに、それでも彼は。一体、自分の何を見ていてくれたのだろう。

「あちらではもう意地悪する物好きはいませんよー。ですからご安心を」

 なんだかほんのり嬉しくなって、はにかんだ。そうやって戻る先のことを考えた直後、
「──あっ!」不意にある事を思い出して声を上げた。その慌てように喜助は「どうしました?」と心配そうにこちらを覗く。

「紙とペン、あります!?」

 戻る前にちゃんと残しておかないと、と思った。彼女のために。そう、織姫がかつて虚圏へ連れ去られた時、残される者たちへしていたことを思い出した。だから今度は戻ってくる彼女のためにしてあげなくては。

「それなら幾らでもあるっスけど……?」

 使っていないというメモ帳を頂戴し、思い出せる限りの事柄を書き始めた。きっと喜助からも同じ説明を受けるだろうが、それ以外の、大切なことだ。

「一体何を書いてるんスか?」

 質問にはお構いなく。立ったまま、近くの机にメモ帳を置いてひたすらに書き綴る。がりがりがり、筆圧音が響くほどの必死な姿に喜助がそっと近づいた。後ろからページを覗き込むようにして、彼は興味津々のようだった。

「み、見ちゃだめですよ」

 背後の気配に気づいて、バッと両手で羅列した文字を隠す。

「気になりますねぇー。どうしても教えちゃくれないんスか?」

 ニヤニヤと推測する喜助に、少し考えてから「少しなら大丈夫ですけど、」と。仕方なく書き置きの一部を手で隠し、彼へ見えるように頭部を退ける。

「ほうほう。えーっと『職場には記憶障害と伝えてあって、顧客データは同僚に託しています。進捗は上司に報告済みで……』ナルホド」

 扇子を広げて音読する喜助に「も、もういいですか?」と恥ずかしくなって読了を急かした。

「これ、ほとんど業務の引き継ぎじゃないっスか……」

 あ、確かに。納得したら持っていたペンをぽとりと落としてしまった。こちらへ来た時もそうだったが、戻る時にも社畜魂が染み付いているのかと思うと無性に悲しくなった。

「ま、まあ彼女が困ることだけは避けたいですし……?」

 そう返せば「それも貴女らしいんスけどね」と笑みを浮かべる。続けて彼が「ところで」と、パシンと閉じた扇子で置き書きの一部を指した。

「この隠している部分には何が?」

 とても嬉しそうに訊ねる喜助に、「う、」とたじろぐ。

「秘密です、秘密! 今日はなんでそんなに食いつくんですか? 前だったら根掘り葉堀り聞きませんって言ってたじゃないですか」

 異議あり、と言いたくなる勢いで反論に出て、すぐにメモ帳をぱたんと閉じた。

「そりゃあ隠されたら気にもなりますって、なんせそういう性分なんで。あの時だってホントは聞きたかったんスよ?」
「あやしいー、なんか言い方が怪しげです、胡散臭いです」
「アラ。そういうこと言ってますけど、貴女の考えを当てることくらい朝メシ前っスからね。……まあ、隠すってことは十中八九アタシのことでしょう」

 呆れつつも自信満々に言い切る彼に、「な……!」と馬鹿正直にも血がどくんと昂るのを感じた。

「ビンゴっスかね?」
「──もう何でもいいですよ! とにかくっ、これは絶対に見ないで彼女に渡して下さいね!?」

 念押しに「いいですか?」と言い募って喜助の胸にメモ帳を預ける。彼は聞いているのか聞いていないのか愉快気に「はいはぁい」とあしらうと、すぐさまメモ帳に目を落として開けようとした。

「あっ言ったそばからそうやって意地悪を……!」
「ついつい、ゆかサンの反応がおかしくって」
「つい、じゃないですよ……。最後の約束なんですから……!」

 そう言うと、喜助は困ったように「そうっスね」と微笑んだ。さっきまでの余裕のある返事とは別のそれに、失言をした、と瞬時に取り消す。

「や、えっと。そういう意味で言ったんじゃないんです、すみません」

 実際のところ、今いる自分とはお別れだけれど。それを改めて感じさせてしまった事へ謝罪した。

「いえ。たしかに貴女の魂魄とは最期っスから」

 言い終える前に、喜助はゆっくりと腕を引く。彼の懐へ入れた固いメモ帳が頬にあたって、喜助の香りが鼻腔を通って脳の奥まで充満していく。後頭部に細くてごつごつとした指を感じると、上から柔らかな声が降ってきた。

「……貴女の言葉を遮っておきながら挙句、こうしてしまい、すいません。ゆかさんは確かに此処にいましたよ。そして、あたしの傍にいた。おかげでとても賑やかで穏やかな日々でした、感謝しています」

 ぽつりぽつりと紡がれる謝意へ耳を傾ける。
 彼に対して密かに願っていたことが無事に届いていたようで、心の底から嬉しかった。喜助には心穏やかに過ごしてほしい、それが少しでも実を結んだのなら、本望だ。

「私の方こそ浦原さんのおかげで昔より成長できました。心も、体も。こちらこそ感謝してます」

 最期の言葉くらいは、少しばかり気丈に振る舞っても良いのだろう。本当は言っている以上に強くなくても、本当は感じている弱さが己に勝っていても、今ここで告げる必要はない。少しでも思い残しは減らそうと決めていたけれど、彼の珍しい言動でこの情愛が残ってしまうのは仕方がないな、ともう潔く諦めた。朗らかな声と香りに包まれながら、僅かな時を味わうように瞬きを重ねる。

 ──……幸せ、だなぁ。

 淡い幸福で心満たすと、そっと喜助の胸板を押した。そうして体を離し、高い背丈を見上げて唇に弧を描く。最初に指示された通りに石壇の前へと向かう。

「準備はいいっスか?」

 ほんのり後ろ髪を引かれながらも、こくんと首肯く。

 ──この想い出を、気持ちを記録して戻るのか。

 恐らく来た時と同様。記憶は保持したまま移動するのだろう。ふう、と小鼻から息を吐き出して、この優柔不断に揺れる心にけりを付けていく。

 ──ごめん、喜助さん。……これだけはやっぱり、無理かも。

 これまで蓄積された感情を振り切って、ある決断をした。その決心を胸に、術式を行うため祭壇ほどの高さがある石へと腰掛ける。布越しでもわかるくらいに冷んやりとして、その石の無機質さを感じた。

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