「どうして、」
一瞬にしてひび割れる空気。二度目の問いに心が距たっていく。
世界を移動してきた事実よりも、自分がこの世界を知っていた事実の方が、喜助にとっては解せないように見えた。それもそうだろう、と彼の詰問に俯いては、ぐっと体が強張った。太ももに置いた握り拳へ目を落としたまま、震える唇に音を乗せる。
「……今まで、騙していて……本当にごめんなさい」
それしか出てこなかった。彼に出会ってからも出会う前からもずっと、何も知らないふりをして傍観して。幾度の追求から逃れながら過ごしていたこと。あろうことか、想い人に対して。これは酷い嘘吐きに他ならなくて、信頼関係を壊す裏切り者でしかない。
「その上、不安な思いをさせて……申し訳、ありませんでした」
地下勉強部屋で喜助から問い質された時を脳裏に浮かべながら、深く頭を下げた。
あの瞬間は誤魔化したい一心が表れ、偽証罪にも似た罪悪感が蔓延っていたのを痛いほど覚えている。きっと彼には大きな不信感を抱かせ、最悪な顛末を想定させてしまっただろう。けれど今はもう。逃げようなんて意思も気力もなく。所詮、罪悪感など、自己正当化しようとした綺麗事に過ぎなかった。今となってはただその罪を深謝し、異世界から来たという怪奇な素性を晒すだけの人間。
詫び言を受けた喜助は、ああ、と。心苦しくなるほどのか細い声だった。
「やっぱり、そうなんスね」
気を落としたように紡いだ。すると膝を擦りながらこちらへ近づく。目の前まで寄ると、固く握りしめていた拳を解いていった。それは以前、一護と夜一を交えた四人で面談をした時のように。そっと触れた指先が温かくて。彼はこんな状況でも堕ちた心を掬い上げようとする。
「顔を上げて下さい。こんなに強く握っては、痕になりますよ」
そう窘めては、裏切り者としての罪悪感を薄めてくれた。
「どんな話でも聞く覚悟って、あたし言ったっスよね? ですから落ち着いて話して下さい」
発露に怯みながら、でも背中押されるように頭を上げる。
「あの、信じなくてもいいんです。ただ……これから話すことは……どうか、みんなには、」
情けなくも今更に口外することへの恐れを感じてしまい、語尾が消えかかってしまう。
「大丈夫っスよ、他言はしません」
そう呟いた彼は、両手を包み込んだまま耳を傾けて。
最も信頼していた喜助にだけ事実を告げられたらいいと願った。
「……ここについては、公表されていることしか、私は知りません」
事を荒げたくはなく、言葉を選んで限定的に告げたのだがうまく伝わるだろうか。
「公表、ですか。仰っている意味が正確に読み取れませんが……」
喜助は帽子奥に潜む目をすっと細めた。もはや言葉選びに意味はない。
ここまで来たらはっきりと告げない訳にはいかないのか、と諦観気味に意を決した。
「……例えば。この場所そのものが一つの物語として語られている、としたら」
「──いったい何を言って」
彼が嘲笑にも似た驚きの声をあげると、少しの間があいた。
それは喜助の推測とはだいぶかけ離れていたようで、今度は彼が困惑を吐露していく。
「いや、流石に。一概に信じる信じないの話にはなり得ない」
拒絶されることを念頭に置いていたから、この否定には動じることなかった。むしろこれは有り難い反応だと考え込む彼を静観していた。
「あたしはてっきり、そちらの場所ではこちらの街や世界全体を観察できるほどの高度な文明を有しているのだ、と勝手な推考を重ねていました。そうしたら全ての辻褄が合うはずだと」
彼の言う辻褄は恐らく、過去に零した失言や不可解な言動のことなのだろうと思う。どうして名を、と本人に問い詰めるほど長らくその答えを探していたから。
「だが貴女の言い分では、まるで。そちらの場所ではこちらは実在しておらず、予め記された物語としてしか知られていない、と……」
喜助は握っていた手を一つ解いた。そして顎に指を当て「では仮にそれを前提として、」と訝しんでは、途切れ途切れに推測を落としていく。
「……それは史書的な」そう半信半疑な声色で訊ねた。
視線を逸らすことなく、取り乱すこともなく「全て、ご理解の通りです」と真っ直ぐに答えた。
敢えて、住む世界が、次元が違うのだと自ら線を引くように。きっと彼のことだ。『架空の』などと御託を並べずとも、察してくれるだろう。そうして喜助は「そっ、スか……」と力なく紡いだ。
──ああ。ついに傷つけてしまった。
こんなにも想っている人を、自らの口で、重ね続けた嘘で。
もっと早い段階で真実を告げるべきだったのだろうか。
最後に哀しませる以外に何か策はなかったのか。
──こんなはずじゃなかった、のに。
今更後悔しても、もう遅かった。『無知は罪、知は空虚』なんて言葉が今の自分にはよく似合う。この世界を知っていても知らないでいても、いずれにせよ自分に叡智は授かれなかったのだろう。もっと上手く、なんてどっちにしろ無理だった。ふと訪れた沈黙はとても長く感じられた。喜助はそれを破るように掠れた声で紡ぐ。
「……それは、残念でなりません。そちらにとってただの虚構でしかないこの世界は、あたしらにとって紛れもなく実在する場所だと言うのに」
それが無いものになっちゃうんスね、と彼は寂しそうに肩を落とした。
「──違う。……あ、いえ、違わないんですけど、その」
その表情に負かされそうになって、思わず反論するような態度を放ってしまった。
「確かにそちら側からしたら、私が向こうで感じたことなんて薄っぺらいのかもしれない。でも、この在り方も私にとっては、大切な宝物で、一緒に過ごしてきて……」
実際この境遇に直面しない限り、どれほどこの場所を愛していたかなんて伝えることなど出来ない。どれほどの時間を、想いを、この世界に費やしたかなんて。到底届きもしないだろう。
──これはエゴだってわかってる、でも。向こうではここが存在しないなんて、とても……。
だってこんなにも特別で。向こうでの平坦な日常を思い返すと目が潤んだ。けれどこの状況で狼狽えている場合じゃないと喝を入れて、彼の失望を覆すように強く告げる。
「ここで感じた痛みは本物だった。苦しみも喜びも嘘じゃなくて。ここで抱いた気持ちも、全部。私にはどちらの世界も現実なんです」
だからどうかそんな顔をしないで、と口には出せずとも。元の場所では知り得なかった様々な一面を彼との生活でたくさん見てきた。それらは全て、現実だった。何を言っても伝わらないかもしれない。心苦しくなりながらも、喜助の落とした視線を拾うように想いを重ねていく。
「それに、こっちに来てから知らないことばかりで。知らない浦原さんの表情にクセ、仕草。全てが真新しくってそれが何よりも嬉しかった」
「……アタシのことばっかりじゃないスか」
「えっ、あ、と」
気づかされて、勢い任せに言ってしまった、と咄嗟に目を背ける。けれど、いつもなら隠し通していた心をもう誤魔化したくはなかった。この気持ちを素直に認めて、はは、と顔を戻した。
「……そりゃそうですよ。私向こうでずっと見てたんですから」
向けたのは嘘偽りの無い本音。
やっと昔の自分に戻れた気がした。そして喜助は帽子に潜む目を丸めてこちらを見つめた。
「では、つまり。戦い方を知っていたのも黒崎サンの名前、アタシの名前を呼んだのも……」
「はい。鬼道の扱いを知っていたのも、桃ちゃんの高度な組み合わせを覚えていたから。一護って出ちゃったのはついうっかり。浦原さんのお名前に限っては、無意識に出ちゃったんですかね……正直、今も覚えてないんですけど」
「なるほど……やはり信じ難い話ではありますが、思い返せば筋が通る理屈っスね……」
こちらがいくら戯けてみせても、喜助は深刻な顔を見せるばかりだった。
もうずっとそれに気づいていたが、これで終わりだからと目尻を下げて微笑んだ。
「最後に困らせるような話で置き土産をしてごめんなさい。私のことはこれで全てですから。仰っていた戻る術を施していただけませんか?」
自らそっと残りの手を解いて「戻れるのなら支度を、」と立ち上がろうとした。
しかし喜助は「ちょっと待って下さい」と、足を止める。
「なにもそんな急ぐこと、」
「ですがこの体の本来の持ち主もいるようですし、もう留まる理由も」
静かに整理をつけた途端、胸中に喜助への想いが荒波のようにどっと押し寄せて。残した未練がひとつだけあった。──思い出さなければ言えないまま。
目頭がじわり熱くなっていく。今にも溢れそうになる感情を口許で押さえながら、告げてもいいのか迷っては堪えて。けれど破面に命を取られそうになった瞬間を思い返したら、今まで我慢していたものは止まらなかった。
「……あの、私」
もう逢えない、そう思った時には口が勝手に動いて。
「……私、浦原さんが……」
「──駄目っスよ、言っては。その先を告げてはなりません」
喜助は鋭い口調で断った。本心は疎かその話すら音になることはなかった。帽子奥で幽かに見える彼の双眸は、微動だにせずこちらを見据えている。そうして言われるがままに、閉口した。想いの行く先を諭すように拒否されたんだと、瞬時に受け入れた。
──ほんと馬鹿だな、わたし。言ったところで……残される側の気持ちを全く考えてなかった。
なんて手前勝手な告白を、と愚かさを嘆いた。自身が洗礼されるようにこの心残りがきれいさっぱり無くなればいい、そんな羞かしい思考に支配されていた。この過ちに気づいてすぐさま詫びた。
「今のは……すみません。何も聞かなかったし、何も言わなかったことにして下さい」
後悔先に立たずとはよく耳にする。転じてか、しない後悔よりもする後悔、という言葉も聞くようになった。しかしそれらの言葉はどちらも主観に過ぎず、受け取る側に対しては何の配慮もない。たった今、彼に言われてそれに気づかされた。残される側はその言葉を受けて一体どうしろと言うのだ。それを頭の片隅にでも置かせて、自分のことを繋ぎとめておきたいのか。なんて身勝手極まりない言動をしようとしたのかと、自身を咎めた。
「いえ、アタシの方こそどんな話でも聞くと申し上げた矢先で……。ただ『想う力』っていうのは強力なんスよ、一度言葉にしてしまうと取り返しがつかない」
だからそれだけは聞けません、そう喜助は宥めるように顔を覗いた。
「……そう、でしたね」
鉄より強い、と一護へ語気を強めたかつての言動を思い返して、伏せた目をゆっくり前に向ける。
「ああ。過去に言ったことも一字一句語られてるんですか、恐ろしいっスね」
「ははは、私こう見えて結構知ってて。だから、」
──せめて、これだけは伝えたくて。
「貴方は、誰よりも幸せになって下さい。絶対にですよ。それでたくさん研究して長生きをして、いっぱい笑って、ご自分のために好きなように」
恋い焦がれていた想いは、いつしかその人の幸福を願うものへと変化していた。先ほどまでは手放すことすら惜しかった幸福。それをこの人のために願うものならば、喜んで手放そう。体を表すように喜んで助けたい。諭してくれたお陰で、揺れていた半端な覚悟は溝へと消え失せたのだから。
「浦原さんが心配することなくこの場所がいつまでも平和であるよう祈っていますから。どうか、お幸せに」
告げられない代わりに想いの丈を抱きながら。目尻を垂らして乞うと、喜助は畳へ顔を背けた。
「貴女無しに、ですか」
彼らしくない返答に、ぴんと空気が張りつめる。
「何言ってるんですか、私は元々いなかったじゃないですか」
喜助が余りに真剣味を帯びた声で言うものだから、図らずも諭すように笑みを零した。
「あ、でも本来の私が戻ってきますよ」
ただ。胸の奥が、ズキンと痛んだ。
けれど自分以外の誰も傷つけないのならもう恐れることはない、そう言い聞かせた。
「それもそうっスね」
首肯いた喜助は、よいしょ、と座布団から腰を上げる。
先に立ち上がった彼が「……こっちっス」と自分の手を取った。その手に引かれて立った。
ああ。ついに最期が訪れる、と繋がれた手と手を眺めてはゆっくりと瞬きを重ねた。
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