──現世 浦原商店入口

 この古ぼけた外観を眺めるのはいつ振りだろうか。
 様々な意味で懐かしく、かつてはここに住んでいたのだと思い返すも、今となっては過去の想い出だ。けれど時にその想い出はちくちくと棘のように刺さって、必ずしも良いものとは言えない。

「あれ、こちらはまだ昼のようですが。お店は開けないんですか?」

 帰ってきた時、現世はまだ昼を過ぎた辺りだった。
 長らく閉めていたのだから早々に開店した方が良いのではとも思ったのだが。当の店長は『本日閉店』と書かれた札を取りかえることなく佇んでいる。

「いいんです、せっかく貴女が帰ってきたんだ。子供たちもどうやら出払っているようですし。さぁ、中へ入りましょ」

 朗らかな声に配慮。この音に仕草に、いったい何度、心臓を掴まれただろう。
 それは心のどんなに小さいわだかまりや不安でさえも、易々と溶かしてしまう。ああ本当に彼が棲みついているなと、自身の弱みにはほとほと呆れた。そんな彼からの嬉しい誘いに応じたくて、でも緩むそうな頬を堪える。「はい」と返事をして、先に店へ踏み入れた。鼻を掠めるのは、古い木造家屋の匂い。初めて目が覚めた時は、田舎のお婆ちゃんの家みたいに感じたなあと思い出した。

 ぼんやりと過去を懐古するのも束の間。喜助が、かたんと閉じられた戸へ内鍵をかけると、その音で現世へ帰ってきたことに意識を戻す。

「あ。そうでした、荷物やら何やら持ってくれて、」

 ありがとうございました、と振り向いて礼を言うはずが、彼の大きな体がそれを遮ぎった。

 はらり、と。後方から暗色の羽織りが翻り、体が覆われていく。考える間すら一瞬にして奪われて、すっぽりと彼の羽織りに収まってしまった。体に充満するのは彼の、焦がれたひとの香り。

 今起こった状況を遅い回路の頭で理解した時には、すでに彼の両腕が自分の首元で交差していて。下を見れば、黒い羽織りが足元までを隠している。首を回すことも、抜け出すこともできないまま。抗うことなく目の前に広がる駄菓子の陳列棚をただただ見つめた。ころ……と見慣れたものが床の上を転がっていく。それは、ぽとりと音を鳴らして落ちた縦縞帽子だった。それを見てから、首筋に触れる人肌を感じはじめて。気づけば喜助が右の肩口にそっと顔を埋めていた。

「……うら、はらさん?」

 喜助からの返事はなく。無言よりも、外跳ねの柔らかい髪が頬にあたってこそばゆい。けれど心地良い。あまりに突然な行為にもちろん驚きはしたものの、前ほど慌てふためくことはなかった。それは胸中で固められた『覚悟』のお陰なのかもしれない。かと言って、抱きつかれたままの状態では、正直どう話しかければ良いのか。喜びなのかも、戸惑いなのかも、適切な表現がわからない。言葉に迷いつつ「あのー……」と濁しながらも荒げずに問う。すると喜助は「しばらく、」そう言って抱く腕を強めた。

「もう暫く……こうさせて下さい」

 まるで憔悴したような、掠れた音だった。見えない表情の代わりに、耳で彼の声色を察する。
 それは聞き慣れたものよりか細く感じられた。どうしてそんな声を、事の発端に心当たりもなく。
 いつもの彼ならどこかで、すみません、と断るのに。
 またうっかり、珍しい、なんて声を出しそうになった。普段とはかけ離れた喜助の言動。混沌とした頭の中。処理しきれない現実にどうしようかと思案を巡らせる。巡らせたところで、何も出てこなくて。彼の『こうさせてくれ』という乞いには 黙ってコクンと首肯くことしかできない。

「少し、疲れました」

 そう肩口で囁かれると吐息が変にくすぐったくて。平常思考すらままならなくなってくる。喜助の弱音を吐く姿に直面するのは初めてで、かつていた場所でも見たことなどなく。少しでもその疲労をやわらげてあげたいと静かに「……はい」とだけ答えた。だいぶお疲れなのだろう。烏滸がましくも自分が充電代わりになれるならと、右手で肩に埋もれる頭をわしゃわしゃと撫でてみた。いつもは撫でられる方。でも今回はその逆で。控え目な指先の返礼。こちらのお返しに喜助が小さく反応を示すと、さらに抱く力が強くなった気がした。

「髪の毛、ふわふわしてるんですね。初めて触って、なんだか得した気分です」

 特徴的に述べた色気もない感想に、喜助がふっと笑いを零す。再び「くすぐった、」と首元でかけられた息に軽く身を捩ると、彼は呆れながら、けれど嬉しそうに告げる。

「得した気分っスか……この状況での言葉としては実に貴女らしいと言いますか。まぁいいんスけど」

 続けて「正直もっと驚くかと思いましたけどね」と言い放つ。先ほどより態度が平常に戻ったと感じるものの、この腕を解くことはしない。

「……えっと、十分驚いてます、けど……」

 まだ商店へ入ったばかり。家に着いてほっと落ち着くかと思いきや、踊りっぱなしの心臓。瀕死の口移しは応急処置として数えないにしても、喜助からこうやって大胆な行為を向けられるのは初めてだ。慣れぬ言動の連続で、平常心バロメーターは振り切り状態。驚かない方がおかしい。

「あーでも良かったっス、今回は逃げられずに済んで」

 最後の一言が混乱を引き起こす。

「? 今回……? え、いや。前っていつですか」
「ゆかサンを組み敷いた時っスかね」
「あ……」

 思い出されるあの聖夜。そうだ、酔っ払いを装われて。じわじわと火照っていくのを感じる。『離して』と言っても聞いてくれず、喜助が寝落ちしたと思った隙に逃げ出したあの瞬間だ。

「あ、あれは、いろいろ考え事があったというか、あっいえなにも考えてなかったっていうか。まだ居候の頃で、なんていうか」

 負い目なんてないのにどこか言い訳がましく、語尾が萎んでいく。それも当然、まだ恋心を自覚する前だったのだから仕方がない。

「いえいえ、驚かせたでしょうから。ただ、あの夜は少々昂ぶってしまって……というのはまあ余談で」
「でっでも、嫌だったとかって訳じゃないんです! ……ほんとうです」
「拒否されたなんて思っていませんよ、おふざけが過ぎたのは否めませんし」
「えっと、すみません……」

 なんて返せば失礼にならないかわからなくて、結局謝ってしまう。
 昔のようなやり取りに平常心に戻ったかもと思ったものの、落ち着くはずがなかった。なにせ好きな人に抱きつかれているのだから。

「……情けないっスよね、こんな醜態をさらして」

 いつもの彼なら飄々と、何事も自信満々に躱していくのに。聞き慣れない受け応えの連続に、ばくばくと心悸が主張する。ぴったりとくっ付かれている今、これでは音が筒抜けだ。けれど、どうしてもそれに応えたくて。首回りに交差する彼の腕に両手をきゅっと添えた。

「いやぁ、どうやら思っているよりもあまり余裕がないようで」

 自嘲するような喜助の息が首筋に。擦れる吐息に、またぴくんと反応してしまう。

「だから、くすぐったい、ですよ、はは。首元で笑わないで、下さいって」

 筋張る腕を握ったまま、我慢できずに声を上げた。にも拘らず喜助はその力を一層強める。そろそろ喉が締まるんじゃないかと思うほど。はあ、と吐いてから少し弛めてくれた。

「……あのぉ……それ、素で言ってます?」
「なにがですか、素でくすぐったいんですよ?」
「勘弁して下さいって何度言えば……」
「……いや、初めて聞きましたけど」

 これに喜助が呆れ気味に「だから悪戯されるんスよ」と窘めた。会話が続いて楽しい。当たり前だった日常を味わうと、喜びに愛しさが一気に込み上げてくる。ああ。幸せってこういう気持ちなんだなと、独りで噛み締めては心満たされて。胸奥がじんと温かくなったり、ちょっと擽ったいような感覚。これが幸せかあ、なんて想いを寄せては目を細める。たとえこれが長くは続かなくとも。幸福の在り処を知る事ができたことに、彼と出逢えた事に、心から、心の底から感謝した。そして、再びぎゅっと喜助の腕を掴んでから、決断した。

「……浦原さん。私から差し出がましいですが、お願いです」
「直球にお願いとは珍しいっスね、なんスか?」
「あの、貴方にもこの感情を、いつか抱けるくらい貴方にはいっぱい笑っていて欲しいです。どうか誰よりも、幸せに満ちていてください」

 思いの丈を伝えたあと「……お願いです」と念押しする。少しの間を置いた喜助は、深い溜息と共に「……あー、ここまでなんスね……」と零した。

「ホントに。なんてこと言うんスか、貴女は」

 まるで喜助は今後を予見していたとでも言うように、その声音に残念さを滲ませていた。

「ただ、思っていたことを言ったまでですから。……とりあえず奥の部屋でお話、しません?」

 告げると、やっと抱擁から解放された。この時間が数秒にも数十分にも、数年分にも感じられた。それほどの幸福を手放すのはとても惜しい。でも、もう時間なのだろう。そう頭の片隅では勘づいていた。喜助が床に転がった帽子を拾うと、そっとかぶり直して「では、行きましょうかね」とこちらの手をとった。

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