小学校最終学年の夏休み。祖母の家へ来たのは三年生以来だった。四年と五年では習い事や課外活動が増え、休みとは名ばかりの期間。あの二年間は年間通して何かに打ち込んでいたと思う。六年にもなると、両親、主に母親からの教育は更に拍車がかかり。爆発寸前だったいづみは、「おばあちゃんちに行かないなら勉強もしない」と反抗期ならではの対抗心を盾にした。
その強めの意思表示が功を奏したのか、ようやく文字通りの夏休みを手に入れることが叶った。
ただし宿題は持って行くという条件だったため、それだけ我慢して祖母の家へ行けるのなら、と仕方なく譲歩したものの、──。

「いづみちゃんは大変だねぇ、夏休みにも勉強に習い事だなんて」
「お母さんがうるさいの。なんでばあばとこんなに違うの?」
「ハハ、あの母さんは昔っから都会に憧れがあったようだからね、おばあとは真逆だよ」
「わたしはずっとここで暮らしたい」
「いてくれたら賑やかになるねぇ」

カリカリ、と円卓を囲って宿題をこなす。
祖母はいつだって温かく見守って、にこやかな雰囲気を絶やさず傍に居てくれた。暮らしたい理由も自然豊かだからという事はもちろん、祖母だから此処にいたいのだ、と。だがこの感情は一生両親に届くことはないのだろう。

「ほら、もうお昼だ。ご飯食べて休まらんと、頑張るもんも頑張れん」

「今日もお素麺で申し訳ないけど」と出される祖母のご飯が大好きだった。いつも質素なお魚だったり夏休みはほぼ毎日素麺だったり。特別なものは何もない。彩りも落ち着いている、騒がしくない。味も濃過ぎない。眼に入るものや味わい全てが別世界に感ぜられて、とても居心地が良かった。

「ううん、わたしはばあばと一緒に食べるご飯が好きだから。お素麺も毎日美味しいよ」

ありがとう、そう返すと祖母は嬉しそうに目尻を垂らした。

「いづみちゃん、午後は外へ出たらどうだい。久しぶりに上のお稲荷さんに挨拶にでも行っといで」
「うーん、行ってくるけど……なんかあそこ怖いんだよね」
「お社が怖いってかい? 前までは自分からあんなに行ってたのに」
「ほら、小さい時に色々あったの思い出してさ、」
「ああ。きつねさんに化かされたことかねぇ。大丈夫さ、いづみならきつねさんとも仲良くなれるんだから」
「いや…わたしはそういう迷信じみた話をしてるんじゃなくて…」

幼少に聞いた狐だとか、神隠しだとか。そういう昔話的な恐ろしさではなく、幽霊的な得体の知れない怖さの方が上回っていた。実際、あの時より六年も経っているのだ、サンタクロースだって本当はいない事も知っている。

「でも気分転換にお山の方へ散歩に行ってくるね」

ずるずる、と素麺を啜ってから、折角来たのだからと夏休みらしく過ごす事にした。







白いワンピースに麦わら帽。飛ばされないよう片手で押さえて、裏山へ。まるで海に出向くような格好だが、山緑に真白もなかなか映えるだろうな、とお気に入りの洋服を持ってきた。するとどうだ。薄手の裾はひらひらとなびき、肩に少しつくほどの髪は夏風に揺られそよぐ。あたり一帯はミンミンと、蝉の唄は煩わしくない。息抜きの気分は上々だ。

人が通れる細い山道を通って向かう先は、五分足らずで着く小さな鳥居。
しかし、行けども行けども。久しぶり過ぎて道を誤ったのか、何分経っても辿りつかない。次第にいづみは焦り始めた。と同時に、嫌な汗が額や全身からじっとりと滲む。

「いや、待って、鳥居も祠もないん、だけど……」

待って、など誰に向かって言う訳でもない。いづみ自身に言い聞かせるように、落ち着かせようと声に出していた。

「もう帰ろ、帰ろう……こわくなってきた、」

いづみは来た道を戻って祖母の家へ戻ろうと踵を返す。
すると耳を澄ませてみれば、ちょうど振り返ったすぐ近くから川のせせらぐ音が響いてくる。真夏に遭難したら喉が渇く。とにかく水は最優先だと実行すべく、音の鳴る方へ足を向けた。流石に遭難まではいかないものの、まずは川へ出る。全く根拠のない自信だが、辿ればきっと山道へ繋がっている、と。こうして川沿いを歩いてみれば、開けた場所に出た。そこには、視界いっぱいに映る大きな木が。遥か記憶の奥底から引き摺り出された、──白い札としめ縄で括られた巨樹の姿だった。


「あっここ…」落とした声に重なって、
「…アラ、」響く男性の声。


音がした大樹の裏を覗けば、見上げるほど背丈のある全身緑色のあの人物が立っていた。「アナタは、──」そう落とした彼も帽子を押さえていづみを見下ろした。木漏れ日が差し込む眼光に声を奪われ、息を呑む。
祖母に言われた狐や神隠しだとか、そんな実感の湧かない話が走馬灯のように駆け巡りながら、最後に残っていたのは可笑しな幼少の記憶だった。そして、過ごした数日を一瞬で呼び起こし、紡ごうとする声は彼の名、──。

「……きすけ、さん……」

誰かを確かめるよりも、ただふっと思い出したように零れ出た。彼は驚いたように目を丸くしたが、それはこの状況に対してなのか、不意に呼ばれたせいなのか、その理由は分からなかった。けれど、すぐに優顔を晒して「へぇ、」と頬を緩めていた。

「憶えてたんスねぇ、道理で泣かない訳だ」

ハハ、と笑ってから、再会を確かめるように帽子を外す。その顔はとなんの姿も変わらない喜助だった。
近づかれたいづみは恐怖に返って「ひぃ…!」慄きの声を上げる。

「そんな久しぶりに会ったって言うのに、まるで幽霊でも見たような顔しなくても」
「いや…いやいや、わたし、帰らないと。お、お邪魔しました」

予期せぬことに気が動転し、取り敢えず逃げることにした。ぺこり、とお辞儀してその場を離れようと背を向ける。

(やっぱりお社なんて探しに来なきゃ良かった、こわいこわいこわい)

駆け足で来た道を戻ると、「あんまり行くと危ないですし、そっち行っても帰れませんよー」と後方で気の抜けた声が響く。いづみは、なんでそんな事分かるんだ、と聞く耳を持たずして颯爽と木の葉を踏みしめて小走りに。

(この道は行ってみないと分からないし、あのヒトは正体がしれないから怪しいヒトだし、とにかく逃げる)

十二才になったいづみは、常識や様々な教えを経て成長していた。防犯ブザーだって六年間保持し、咄嗟の判断で使った事もあるくらい危機管理の意識は学んでいる。

ところが。「っ、うぎゃあ!」蔓と根っこで足を絡ませてしまった。
倒れる先に視線を移すも、地面は数メートル下。運も悪く山の斜面ですっ転んでしまい、咄嗟に頭を抱え込んだ、瞬間──。

「……だから言わんこっちゃない」

ふわり、宙に浮いて。落ちたはずの体はこのヒトの腕に掬い上げられていた。
いつの間にか下に入り込んでいて、横に抱えられ。舞いそうになった麦わら帽子までも掴んでくれた。文字通り瞬く間の出来事で、頭が追いつかなかった。

「相変わらずそそっかしく、おてんばなんスから、いづみサンは」

彼もまた名を憶えていた。人間かも分からない不審者に呼ばれてハッとする。
自分も相手の名を覚えていたけれど、同じように記憶を返してくれた事がなんだか無性に嬉しかった。あの時に体験したことは絵空事だと、空虚な妄言だと、いづみ自身でさえも疑ったことがあったのに。忘れられない想い出を共有できた気がして。

(うそじゃ、なかった。…あれは、記憶違いなんかじゃなかった)

六年前の暑い夏旅。幼い頃へ舞い戻ったように、また心が躍る。優しくて懐かしいこの感触と共に。


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