ポロロロン、──。目を瞑ったまま枕元を探る。
「んー」何度目かでようやくスマホのアラームを止めた。ああまだ眠い、降ってくる涼風が心地良くて布団から出たくない。低血圧ないづみは目を擦ることもせず壁に向かって寝返り、ぼす、と布団を巻き込んだ。

確か申請した休みは今日が最後。忌引きとはいえ最後の休暇だ、徐々に目覚めてきた頭に現実が薄ら浮かんでくる。

(……直ったクーラー。あ、もう業者呼ばなくていいんだっけ)

血行が巡っていないような重い体を起こし、キシ、とヘッドの端に腰掛けた。両手を天井へ伸ばし、背骨を反り返す猫のような伸び。手を下ろして、はあ、と気怠い息を吐くまでが目覚めの儀式だ。ぼんやりとした頭でよろつきながらリビングへ向かう。
ガチャ、と扉を開けて、──。

「……わ、そうだった……」

広げられたソファベッドが部屋の大半を占めている。その上には毛布を被ったおじさんが、くの字に折り曲がって寝ていた。

ソファは二人掛けではあるが一人部屋に置ける狭さ。くの字に曲げているのは足がはみ出してしまうからだろう。彼は幼少期に出会った頃と変わらず背丈が大きい印象だった。
まじまじと観察してから我に返ったいづみは、顔中をぺたぺたと触る。そして自分のパジャマを確認した。

(朝起きた姿が見られてなくて良かった……。変、じゃないよね)

とりあえず。上から適当に薄手のパーカーを羽織ってパジャマを隠す。
大人になってから誰かが泊まりに来て寝巻きを晒すこともめっきり減った。ましてやその相手がよく知らぬ中年かもわからない男性。そんな人物との共同生活を許してしまったのは昨日だった。

後悔してない後悔してない、と昨晩の決断を何度も未だ説得し続けていた。でもここに成人男性がいる。紛れもない事実は今、どう転がっても変わらない。

──う、スッピン。

危ない危ない。彼が起きる前に気づいてよかった。
いづみは急ぎ足で洗面台へ向かって顔を洗う。
そのあとは軽く、ほんとうに軽く薄化粧。普段は朝起きたてすぐに化粧はしないのだけれど。これからはした方がいいかもしれない。よく知りもしない男性にスッピンを見せる勇気などあるわけがないのだから。面倒だが仕方がない。ぱぱっと済ませるも、今日は気乗りもしなければ化粧乗りも悪かった。

リビングへ戻ると男はまだ気持ちよさそうに寝ていた。人の気も知らないで。……そう思うなら許可しなきや良かったのに、ともう一人の自分が囁いた。

ああだこうだ逡巡する傍らで、ぐう、と空腹が胃を刺激する。結局朝食の方へ意識が持っていかれ。自分は間違ったことはしていない、と何度目かに言い聞かせたのち、冷蔵庫から飲み物を注いだ。

あ、朝ごはん。と思ったものの、今あるのは冷凍食品と昨晩コンビニで買った食パン、少しの卵。
後ろで寝ている彼の格好から察するに、和食が好きなんだろうとはわかる。思えば、立ち寄ったサービスエリアでの食事も定食だった。卵とパンで軽いトーストしかできないなあといづみは申し訳なく思ったが、仕方ないので朝食はパンにすることにした。

(二人分ってどのくらい必要なの、成人男性ってどのくらい食べるもんなの)

口が滑ったように生活を始めてしまったが、実際は不透明なことばかり。不慣れで、行き当たりばったりな共同生活。これから一体どうしようか。ぐるぐると思案しながら目玉焼きを作った。うっかりして焦げそうになって、慌ててコンロから離す。面倒なので一気に焼いて目玉を半分に切り分ける。フライパンですら二人用じゃないのに。同居を許したものの、生活の仕方がわからない。

暫くすると、チン、と飛び上がるトースト。二つ跳ねた。だから二人ってどうやって暮らすんだろう、と同じ悩みが堂々巡りに繰り返された。

どれも火を通しただけの朝ごはんをローテーブルに置く。彼の食事を真ん中にして、さて自分のはどこに置こう。隣? いやそれもどうなのか。クッションを敷いてサイドに座ればいいか、と自分の朝食は敢えて離して置いた。昨日の今日だ、肩を寄せ合って食べるのは絶対にすべきではないと妙な道理が働いた。他人を寝かせて今更道理もなにもないけれど。

「……ふあ、」

彼はようやくお目覚めらしい。
まあ自分もアラームがなければ同じようにぐうたら寝ていた訳だが、仮にも客人がいる手前でそれはできない。かと言っておもてなしもない。

「おはようございます、喜助さん」

むくりと体を起き上がらせてから「おはよっス、いづみサン」と目を擦っていた。

『──おはよっス』

この挨拶。懐かしい響きだった。
昔、母に口煩く注意を受けたことがある。なにかのきっかけで、保育園の先生に「おはよっす」と連日言ってしまったことがあって、「そんな挨拶しないの」と母が驚いたように叱責してきたのを幼い記憶として残っていた。

でも今は、成人男性、自称死神さんが挨拶として口にしている。別にそれを聞いてダメなヒトなんて思わないし、その人らしさがあって自然だと思った。何が正しくて何がいけないかなんて、結局自分の物差しでしかないわけだ。

「いい香りがして目が覚めましたよ。美味しそうっス」
「たぶん和食がいいかなって思ったんですけど、パンと卵とインスタントくらいしかなくて……こんな朝食ですみませんが」

他にもお腹に足りなかったらすみませんとか、栄養によくなくて申し訳ないとか。謝り倒しそうになる。同居を許可したくせに何も整ってないから。

「謝らないでくださいよ、最初に間借りをお願いしたのはアタシなんですから」

いづみが軽く首を垂らすと、「それに、」と喜助が続けた。

「こんな身なりっスけど、アタシは洋食も好きですし中華でもなんでも食べますよ。あっ、他にもアタシに関する情報ほしいっスか? これから一緒に暮らしてくわけですから」

一緒に暮らしていく、これから。
最後の一言でさらに現実を直視させられた気がして、目を丸くした。

「あ、いえ、洋食が大丈夫ならいいんです。別に他の情報はいらないです」
「そっスか。まあ、アタシのこと知りたくなったらいつでも答えますんでね」
「……じゃあ、朝ごはん食べましょうか」
「はい、いただきます」
「い、いただきます」

目玉焼きを一口食べてから、またいろんな疑問が。
聞くのもなあ、とすっと立ち上がって冷蔵庫まで取りに行った。

「どうぞ、お醤油かソースかお塩かマヨか。わからなかったんで調味料全部持ってきました」

これに喜助は、はは、と笑う。
どうして笑われたのかわからなくて、ひとつの忘れものに気づいた。

「あ、ケチャップ派でした?」

言下、クツクツと喉を鳴らす喜助。どうやら違ったらしい。

「さっそく聞きたいことがあったんじゃないスかぁ。目玉焼きにはなにが好きか単刀直入に聞けばいいのに」

う、と図星になり、恥ずかしくなってきた。
ただ言っていることが正しくご尤もなので、赤面してる場合ではないと反論は呑み込んだ。

「そう、ですね。何か好みがあったら我慢はしてほしくないので、ご希望に添えるようにしますから。言ってもらえたらと……」
「家主が居候に合わせるなんて。あなたが思うままにすればいいですよ。そもそも我慢はいづみサンの方がしてるかと。なのでアタシが嫌になったらすぐに追い出せばいい」

彼には我慢という観念とは無縁なのか。たしかに自由奔放そうではあるけれど。自分のこれまでとは異なる価値観。住まわせてと言ったり追い出せばいいと言ったり。一過性があるようでないような回答で、呆気に取られそうになった。
いや、追い出せばいい、と言われても。もう朝っぱらから思考がうまく働かなくて、そんなことないですよ、と否定すべき返答も出てこなかった。

「そっスねえ。目玉焼きは何もつけなくてもいいですし、でもせっかくなんで全部の味を試したいところではありますかね」

いいっスか? と最後に聞いてくる喜助の手にはすでに醤油が握られている。和装に醤油が似合うなあと思えば、ふふ、とごく自然に笑みが零れた。

「やっぱり醤油からなんですね。どうぞ、全部試してください」
「一番身近な調味料と言いますか、ですがソースも捨てがたいっスよね」

一口食べては味を変えて。味変を楽しむ様子が子供みたいで真新しかった。

「そうですね、食パンもなにか好みがあったら言ってくださいね。いちごジャムはありますから」

パンにジャムを塗ってかじりつく。使ってもいいですよ、との意でそれを彼の前へ差し出した。
「どもっス」彼もこちらの真似するように大きくかじりついた。

「……ん、パンも美味しいっスねぇ」

和装にちょっと不釣り合いな食事。彼が美味しいと感じるのなら、それはそれで良し。むしろその不似合いさが微笑ましくさえ思える。

「あ、そうだ。今日はですね、行きたいところがあるので食べたら外へ行きましょうか」
「分かりました、いづみサンからお誘いなんて楽しみっス」

彼の冗談めいた言動。耐性をつけようがないので、慣れよりそういうものだと聞き流すことにした。

「急がなくていいので喜助さんもちゃんと顔洗ってくださいね」
「はぁい。ってなんだかお母さんみたいっスよね」
「お母さんじゃなくても言いますよ」
「あーいえ、そういう意味ではなくて。一応アタシたちは親戚関係ってことなんでね、まあ」
「今のは聞かなかったことにしますが、外では親戚関係でいましょうか」
「ええ、承知しました」

話しながら食べ終え、いづみは先に片付けに台所へ。

「あ、食べ終わったら置いといてもらっていいですよ。先に身支度しててください」
「皿くらい持ってきますよ。あと調味料、冷蔵庫に戻しておきますね」
「あっはい、すみません」

洗い物をしていると、トン、と肩を叩かれた。振り返ると食器を手にした喜助が。早々に食べ終えたようだった。

「朝ごはん、ご馳走さまでした」

眼を見て告げた。なんだ、意外に律儀なのか。なんでもない挨拶が耳に残る。普段は言われ慣れないからだろうか。たった一人増えただけなのに。その一人に対しての食事の仕方や気の回し方が思い出せなくて。

(どうしてたっけ、実家に住んでた時とか、おばあちゃんといた頃とか……)

居候のいる生活、緊張を解くにはまだ暫く時間がかかりそう。いづみはぐらつく不安を洗剤の泡と一緒に洗い流した。


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