誤りも溶けてしまえば
部屋の壁に背をぴたりと付け、脚を伸ばしながら組み替える。読書をする時は決まってこの格好だ。
日中はこうして本に没頭してしまえば、一日があっという間に終わる。時間の流れを速く感じさせるには一番手っ取り早い。
読み進めていくと、人物の影が視界の隅に入った。今日は珍しくゆかに来客のようだ。
「……あれ。雨ちゃん、どうしたの?」
開けっ放しにしていた引き戸に佇む彼女は、じっとこちらを見つめて恥ずかしそうに眉尻を下げた。
「廊下に立ってないでこっちおいで?」
雨の性格を理解しているゆかは、その人見知りの感情を汲むように入室を促した。幼い頃の彼女と比べ背も伸び、大分人見知りも解消されているようだが、急に居候となったゆかにはまだ心を開いていないようだった。
こくん、と頷いて両手を胸に寄せながら近く彼女は、ゆかの隣まで近づいていく。読んでいた本へ栞を挟むと、畳に手を置き「座ってお話しよっか」と微笑んだ。
雨はゆかと同じように壁に背を預け、小さく三角座りをした。
普段、雨は望んで他人に近づかない。なのに今日は敢えて向こうから訪ねて来た。何か用があるのだろう、と察するにはあまりにも容易で。
ゆかは、どうしたの、と一度問いかけた質問を二度も聞く事はしなかった。彼女のことだから自分のペースで話を切り出したいだろう。
暫く沈黙が続いたあと、雨は三角座りした膝を抱えながら口を開いた。
「あの、ゆかさんは……」
一言ずつゆっくり発される言葉に「うん、」と相槌を小さく入れながら聞いていく。
「……キスケさんのこと……嫌い、なんですか?」
想像だにしなかった内容に、「へ?」と気の抜けた声が抜ける。
「いや、いやいやいや。嫌いだなんて、そんな。全然思ってないよ!」
全力で否定したが、雨はどう感じてくれるのだろうか。その言葉に、彼女は安堵する訳でもなく、憂いた瞳のままゆかへ顔を向けた。
「喜助さんは、優しいですよ……」
訴えかけるような口調の雨に、ゆかは大きな勘違いが生じている、と彼女と同じように眉を下げた。
「知ってるよ、うん知ってる! 浦原さんはすごく親切で優しくて頼りになるっていうか」
慌てて肯定してみたものの、自分で言っていて段々と恥ずかしくなってきた。何故こんなに必死に喜助を持ち上げなければいけないのか。いや、持ち上げでもなく事実を言っているまでだが。彼女へ嫌いではない旨の主張をする度に羞恥は増す一方だ。
ゆかはその裏にある感情を隠し、「私の態度でそう思わせてたみたいで、ごめんね」と小さく頭を下げた。
きっと自分のつんけんした態度や警戒心、その他諸々の言動が見られていたのだろう。同じ屋根の下で暮らすということはそういうことだ。
今までの出来事を思い返し、大人が子供に要らぬ心配をさせてしまった事を深く猛省した。
「ただ緊張したりしてうまく話せなかったりしてるだけなんだ。心配かけて本当にごめんね。でも、もう大丈夫だから!」
自分の非を猛省しつつ、雨を安心させようと微笑んで目を細めた。すると彼女は顔を上げ、憂いた瞳から朗らかな表情へと変わっていた。
「……私も」と雨が一言零せば、ゆかも「一緒だね」と肩を寄せ合った。
二人で笑い合っていると、廊下から軽快な声が響く。
「雨ー、どこっスかー? ジン太が外で呼んでるっスよー」
噂をすれば。本人の声が近づくと和室の前で足音が止まる。
「あー、いたいた。ジン太が探してるよ、雨」
そうだった、彼が雨に話す時は語尾がとても柔らかい。
それを思い出したゆかは、雨にとても心配をかけたのだろうな、と改めて実感したのち反省した。
「はい、今行きます」
サッと雨が立って喜助に駆け寄って行く。
「ところで、二人で何話してたんスか? 珍しい」
ゆかにも聞こえるように彼女へ問えば、「……キスケさんのこと」と素直に即答した。
それを聞いた喜助は、にたにたと口角を上げながらこちらへ視線を移す。ああ如何にもこれは調子に乗りそうな表情だ、と直感したゆかは思わず「ちが、」と声を上げた。が、直前の雨との会話が盾になり直ぐさま訂正する。
「そ、そうそうっ、浦原さんのことを話してたんですっ」
それを聞いた喜助は嬉しそうに目を細めては、雨に目線を合わせ屈む。
「雨、アタシの何を話してたんスかぁ。良い人だって?」
喜助は笑いながら「まさかそんなこと話さないっスよねぇー」と一人で冗談を交えた。堪らずゆかはぎくりと肩を強張らせてしまう。
──雨にすごく良い人だねトークをしてしまった……!
一方の雨はその質問に頷きながら「……優しくて頼りになるって」と一字一句、間違わずに。ゆかはその返答に焦りつつも口許を手で隠す。いや、彼女の言い方ではどちらがその言葉を発したかは定かではないだろう。誰の言葉か分からぬように願いながら覆った手を外した。
喜助は笑いもせず目を丸くさせて「へぇ、」と相槌を打つと、雨の頭をくしゃりと撫で回した。
「嬉しいっス。ありがとう、雨」
言って、彼はこちらへ向けてにやりと微笑んだ。
自分と目が合うと、もしやこの表情は、と焦燥が走る。普段の彼だったら買い被りだとか普通のことだとか否定するのに、そうしない。雨の前だからだろうか。
「いやぁ、たまーに褒められるのも悪くないっスねぇ」
実に嬉しそうに、彼方遠くにも聞こえる程の声を発しながら、喜助は雨と廊下を歩いていった。
ああきっと、これは諸々を確信されてらっしゃるな。
独り残されたゆかは、やるせない気分になりながらも本に挟んだ栞を手に取り読書を再開した。
──誤解はよくないからね、誤解はね。雨に迷惑かけちゃうしね。
そう自身に言い聞かせては本を見つめるも、邪念が邪魔して一向にページが進まない。墓穴を掘らないようにもう今日は大人しくしていた方がいい。半ば諦めに近い気持ちで心を落ち着かせていた。