ベルスーズ、幾夜を渡って
かた、と揺れる引き戸の音で瞼を上げた。
部屋の中はまだ暗く、壁掛け時計の秒針がかちかちと耳につく。窓から差し込む月明かりで、それに目を向けると、針は午前二時を指していた。
──まだ夜中か、でももう寝られないな。
先ほど開いた戸は、恐らく夜一が出て行った音だろう。
毎晩午前二時から三時近くになると、喜助と交代して夢魔の見張りをしている。
その事情を知ってしまったゆかは、毎夜同じタイミングで目を開けてしまっていた。
体の怪我は大分良くなっているので、むくりと上半身を起こし、寝る直前まで読んでいた本へ手を伸ばした。就寝したのは三時間前の晩、十一時。
本でも読んで起きてしまえば、二人に面倒をかけることはないのだろう、と思った。それにちょうど良い角度で、月光も差し込んでいる。これなら灯りを点けずに読めるかもと本を開くとそれと同時に再び戸が引かれた。
「なんじゃ、目が覚めてしもうたかの?」
夜一に続いて、交代役の喜助も「おや?」と傾げながら部屋に入った。
「あ、目を開けたら、本の続きが気になっちゃったんです」
続けて「月明かりがちょうどいい場所にあって」と告げた。自分の意志で起きた意を暗に伝えたつもりだったが、二人には通じるだろうか。
「神野、まだ三時間しか寝とらんじゃろう。本は日中に読めば良い」
夜一は眉を顰めながら腰を下ろした。
「三時間でも立派な睡眠ですよ。しかも働いてないんですし」
自虐的に笑ってみたが、自分で言っていて若干虚しくなった。夜一の横に身を屈めた喜助も、そうそう、と首肯く。
「夜一サンの言うとおりっス。それに眠ることも貴女の大事な仕事ですよ?」
「……儂は自室へ戻るからの。喜助、神野に子守唄でも聴かせてやれ」
やれやれと言いたげな夜一は含み笑いで一瞥したのち、立ち上がった。
「そんな、大丈夫ですって。子守唄って赤ちゃんですか……」
「なあに、遠慮するな。儂らにとって神野も赤児のようなもんじゃ」
はははと夜一が高らかに笑うと、伸びをしながら出て行ってしまった。
──たしかに、百年単位で考えたら赤児も同然だけどさ……。
ゆかは浅く息を落として、仕方なしに本をぱたんと閉じた。諦観気味に再び布団へ横になる。
「では、アタシの子守唄でも聴きます?」
「……浦原さんの唄は聴いてみたい気もしますが、夜中ですので控えましょうか」
喜助さんの子守唄なんて逆に目が冴えてしまうわ、と内心返しつつやんわりと断りを入れた。彼はその返しに何故かニヤつきながらこちらを見下ろす。
「にしても。寝ない理由がアタシらへの遠慮、であれば否が応でも子守唄を聴かせる必要がありますねぇ」
喜助は勘づいていたようだった。
目を開けたら本が読みたくなった、だなんて理由がこの人に通じる訳もなかったのだ。
「実際、毎晩お二人に申し訳ないですし、」
そう零せば、喜助はあら、と微笑んだ。
「この間の余裕の笑みはどこいったんスか?」
そうだ。言った、確かに言った気がする。
あの時ゆかは僅かな勇気を以って、喜助へ告げた事実を思い出した。
──『私が危なくなったら、また呼び起こしてくれるそうですから。ですよね、浦原さん?』
自分で放った柄にもない言動がぶわあっと蘇る。
「ああ……」
布団を被ってしまいたいくらいにこの空気が恥ずかしい。まだ夜中でよかった。少なくともこの赤面症が露わになってることを知られずに済む。この会話は不幸中の幸い。
「アタシが何とかしますって言ったじゃないスか。だから何も気にしなくていいんスよ、寝てくださいな」
喜助はそう言うと手を伸ばして、ゆっくりと前髪をさすりはじめた。
「……なんだか、子供のようにあやされてる気がするんですが……」
小馬鹿にされているのか、彼本来の胡散臭さなのか。
「あ、分かっちゃいました?」
彼がへらりと言ってのければ「よく雨にもやるんスよ、寝られない時に」と付け足した。
「なっ、完全に子供と同等じゃないですか……!」
その扱いに悲しみを覚えつつも、喜助は寝かしつけに慣れているようで段々と本当に眠くなってきた。これを心地よく感じているのが大の大人なのだから羞恥どころか申し訳なさも不甲斐なさも混じって、ぐっと布団を鼻まで引き上げた。
「はいはい、おやすみっスよー」
彼の声が子守唄みたいなものだと胸中で不貞腐れると、次第になんだか妙な微睡みと安堵へと移り変わり、ゆかは喜助とは反対方向へ頭を向けた。
「……おやすみなさい、浦原さん」
それから数秒することもなく、和室では静かな寝息が響いていた。