雪に縋る墨 (HBD in 2022)
ふわあ、と目を擦り今日は早めに居間へ向かう。と言ってももう昼過ぎだが、こんな年の瀬でもあちらサンから何やら依頼があるのだから仕方がない。先延ばしにすればいいものを、内容を聞けば自ずと手を出して結局終わりまで没頭してしまうのが己の性だ。それが大晦日であろうと。詰まるところ、自分本位なのは変わらない。
「おや、お一人で?」
居間に入ればゆかがこたつで寛いでいた。
「あ、おはようございます。今起きたんですか? みんなは買い出しに行っちゃいましたよ」
「おはよっス。どうも没頭すると日時を忘れがちで」
「知ってますけど。でも今日くらいはゆっくり休んでくださいね」
ああ、今日くらいと言われて気づく。年末の世間一般で休暇という意味ではなく、大晦日はそうだった。冬季休暇も日常の延長と化した中で、貴女が現れてからというもの、意識する回数が増えた。自分の日というのは単なる月日を示した数字ではなく、他の誰かが認識してこそ歓喜が伴うものだとここ数年で理解してきた。
「そっスね、今日明日明後日はあちらサンから連絡も来ないと思うんで」
まあ何か来たところで少しばかり無視しても問題はないだろう。
底冷えに堪らずこたつへ足を入れ込む。すぐ隣へ腰を下ろした。
彼女がじっと眺めているものを同じように見つめる。起き抜けでぼうっとしていた思考がようやく冴えてきた。
「……今日くらいはって、あのぉゆかサンこそ大晦日に見るものっスかね」
年末の特番と言えばもっとこう、一年の振り返りだとか、一挙放送だとか、食べ歩きだとか慌ただしくも燦燦とした印象なのだが。子供たちがよく見ているお笑いも定番だ。しかしゆかは前のめりになって興味深くその放送に釘付けになっていた。
「えー大事ですよ危機管理は。どうなる地球、ですって。こわいですよね、隕石とか異常気象とか」
こちらを一瞥したかと思えば、すぐにその番組へ視線を戻した。
「まあこわいと言われればこわいんスかねぇ……」
ユウレイと呼ばれるこちら側の世界や死神、三界に関わる方がよっぽど怖いと思うが。だが地球そのものがなくなったら均衡も何もない。それはそれで楔が揺らぐ。怖いと言えば怖いのか、と彼女の言葉に首肯いた。
あまりこういう危機や恐怖を煽るような話は好まないと思っていたのだが、また彼女の意外な一面を垣間見た気がした。するとリモコンをぎゅっと握ったまま、こちらを見ずに「ねぇ浦原さん、」と自分を呼ぶ。
「もしももうすぐ世界が終わるってなったらどうします?」
これはまた唐突な。明日でもなくもうすぐとはあまりに期限が曖昧で議論しようにも不明確なことが多すぎる。
──いや、今日に限ってこんな話しますかね。
そんな独り言は一旦呑み込んでゆかの質問へ思考を戻した。
質問に質問返しは禁じ手だが、「どうってどうしましょうかね」と返せば、「浦原さんだったらどうしますか」と間髪入れずに戻された。彼女は存外、探究心に満ちているのか、若しくは自分と共にいることで危機管理への意識や興味範囲が広がったとも捉えられる。後者ならそれは大歓迎で喜ばしいことだ。
「そうならないようにします」
「なったらの話ですよ」
「ですからそうならないためにアタシがどうにかするんで」
「もしもの場合ですってば、話が終わっちゃうじゃないですか」
なんだつまんない、と頬杖をついた。その姿がまた物珍しく、新たな一面を知るとこちらも追求心が尽きない。
「世界が終わる話がおもしろいんスか?」
「そういう意味じゃないですよ」
そのまま崩壊を描くようなシミュレーション映像に目を向けた。眉間に皺を寄せて硬く手を握る様子は、確かに面白いと感じているようには見えなかった。
もしも世界が、と考えなかったことはない。むしろあの時だってそうならないようにと、現世で最悪の状況に備えて研究を続けてきた。さまざまな策を講じてきた。側から見たらせめて自分の命くらいはどうにかなるように動いていたと感じただろう。
最後の日か、終わりの確定までは想定しなかったなと今の自分ならどうするだろうかと巡らせる。実際は彼女を置いて、最後までどうにかしようと苦慮しているだろうが、それを告げたらまたおもしろくないと言われそうだった。であれば、それを受け入れるしかない場合、自分なら。
「……どこか二人きりになれる別の世界へ行きますかね」
その声に黒目を大きくさせて振り向いた。しきりに瞬きを繰り返すゆかに続ける。先程の質問の解だ。
「世界が滅亡するって予め決まっていたらの話です」
握りしめていたリモコンをコト、と置いて向き合う。
「あ、考えてくれたんですか」
「まあ考えたというか、世界を諦めた場合になりますかね。どういう原因かはさておき」
「それは意外です。最後までいろいろ頑張ってそうなので」
「ですからそれをつまらないと言ったのは貴女でしょう」
「ああ、そうでした」
こういう答えを望んだわけでいたはないらしい。どういうつもりで訊いてきたのか、単に番組の煽りに乗せられただけで、食べたいものを答えたらよかったのだろうか。まあ意外と言われたら意外なのだが、彼女の求めた答えを言ったわけでもなければ嘘を告げたわけでもなかった。
「その浦原さんの答えって、科学的な別の世界ですよね。例えば私が前に居たような」
「生き残るためにと考えたらもちろんそうですし、終焉を迎えるにしても地獄に行くにしても、ゆかさんを道連れにしようかと」
「ええ地獄って。他に言い方ないんですか、せめて天国がいいです」
「はは、間違いない」
こちらの地獄≠さり気なく零してみたが、彼女の現在の知識ではそのことは知らないようだった。それならそれで都合がいい。けれど地獄へ連れていく気も更々ないのも事実。少なくとも、自分が死した場合の行き先は確定なのだからどう足掻いたらそこへ向かわずに済むか、とは常に頭の片隅にはある。
『備えあれば憂いなし、今こそ防災の見直しを!』と最後に締め括られ、大晦日に珍しい特番は終了した。世界が崩壊する可能性の話をしておいて、人類に対し防災も備えもあるのかと冷えきった眼差しを向ける。
そのまま、パチ、とテレビの電源を切った彼女は立ち上がった。
「ちょっと納戸へ行ってきますから待っててくださいね」
今二人しか居ないというのに、待っててと言われて大人しく待つ性ではない。足音を立てずに緩む口許を抑えながらその後ろを追った。ガラリと引いた彼女の指に、自分の手を重ねた。
「あっ待っててって言ったじゃないですか、」
ついてきたんですね、と想像通りに振り返ってくれて堪えられずに「あはは、来ちゃいました」と戯けておいた。彼女はがさごそと物置のさらに奥の箱を取り出す。もう大掃除は終えているというのに忘れ物でもしたのか、先程の防災に感化されたか。納戸というのは滅多に使わない物を保管する場所だ。屈んで探す後ろ姿。「あ、こっちだった」と独り言を見守り、彼女が意気揚々と嬉しそうに振り返った。
「ここに隠しておいたんです」
彼女の手のひらに目を落とせば、淡い色の桐箱が置かれていた。
そしてその隣には白い封筒が。ああ、そうか。大晦日らしく今年も用意してくれていたのかと先程の居間での日常会話すら愛おしく感ぜられた。
「……こちらは、あけても?」
手に取って伺う。本当は彼女の思惑通りに、納戸で渡すより居間の方がまだよかったのかもしれないなと思いつつ、納戸で渡されることもまた大晦日らしくていいかと胸に広がる安らぎを味わった。
「はい、お誕生日おめでとうございます。あ、お手紙は後で一人で読んでください」
この封筒は手紙かと得心すると同時に初めてもらうような気がして、今すぐにでもあけてしまいたかった。
「今年もありがとうございます。お手紙は失くさないようにしなきゃっスね」
「書物の間とかに挟んでそうですもんね。私のは恥ずかしいのでどこかにしまってくださればと」
自室の荒れ具合を見たらどこかに紛失しかねない。それは共通の認識だった。葉書や手紙を本の間に入れて栞代わりにすることは日常茶飯事だからだ。
そんな冗談、いや事実を交えながら、彼女の希望通りまずはこの桐箱を開けることにした。
蓋を開けると、黒光りした如何にも長持ちしそうな一本が横たわっている。これは書きやすそうな、宝の持ち腐れにもなりかねないが、日常で使えそうだ。
「これは立派な万年筆、とても重宝しそうで助かります。こういうのもまた嬉しいっスね」
だから今回は手紙も添えてくれたのかと、楽しそうにこの日を祝福する彼女その姿勢が嬉しかった。もらうものが物だけでなく、おめでとうの言葉にも絆される。年に一回最終日にこれを感じると、今年も来年もまた貴女の横で歩んでいく悦びに満たされる。
「喜んでもらえてよかったです、」
と安堵を向けられた。万年筆にするかを相当悩んでいたのだろうか、その理由が解せず伏し目がちの彼女を見た。
「ほら、浦原さん、よく研究がてら書き物をしたり、時々尸魂界にお手紙を書いたりするじゃないですか。……だからえっと、もし私がおばあちゃんになっても、読み返して浦原さんだなあってわかるメモとかあったらいいなって。私宛の手紙じゃなくてもいいので」
手紙がほしいとは言わずとも、筆跡で自分が書いたものだとわかる物があればいいと言う。本当は彼女宛の恋文や何かがあれば幼子のように驚喜するのも知っている。それでも彼女は謙虚に、こちらに気を遣わせまいと。その姿勢がなにより貴女でよかったと思わせてしまう、絆されてしまう所以なんですよ、と告げたくなる思慕を呑み込んで眦を垂らした。
「そうですね、筆跡で懐かしいと思うことはありますし、昔は筆を使うことの方が多かったんで万年筆もまた味が出る。ゆかさんに返信する際には使いたいっスね」
言って、おもむろに封筒から手紙を取り出した。
「あっだめですって、そういうのは後から読んでくれないと!」
慌てた彼女の制止が入る。目の前で読まれるのが恥ずかしいらしいが、それより恥ずかしいことの方がこれまで多かったはずだ。
「ええっと、『浦原さんへ 今日はお誕生日おめでとうございます。こうしてお手紙を書くのは、』──」
「わっわー! 読み上げるのはもっとだめです、早急にしまってください!」
手紙を頭上にあげて彼女の手が届かないところへ避難させると、顔を真っ赤にさせては今にも泣きそうな様相で見上げてきた。本当に駄目なことらしい。幸せも哀しみもわかち合いたいと誓ったあの日は今回だけは例外だろうか。と馬鹿みたいな惚気が頭によぎった。これは秘めておこう。
すると玄関口からガラガラと、引っ掛かりのある戸の音が聞こえてきた。「戻ったぜー」というジン太の声に何かを注意するテッサイの声。ああ、もう終わりかとこの空間を物寂しく感じた瞬間、彼女が「あっ皆さん帰ってきましたね。行かないと」と自分より先に離れていった。
それにどうしてか我欲が働いて、少し虫の居所が悪くなったのを感じた。
彼女の右手を掴んで引き寄せる。
「うわ、わっ、」と体勢を崩して後ろに倒れそうになるところを真正面から抱え込んだ。こうして腕の中に収めてしまえば今日は僕のもの。なんの問題はない。
ひょいっと近くにあった箒をつっかえ棒にして納戸の入り口に立てかけた。
「駄目っスよ今出ていったら」
背を丸めて包み込んだ彼女の耳元へ囁く。息を潜め、耳まで赤く染め上がったゆかを覗き込んだ。
「ちょ、だめって、なんでですか、みんな探しますよ」
「いいんですよ探してもらっても。見つかる気はないんで」
「だってこれから浦原さんのお誕生日をお祝いしようって、」
「……貴女の駄目だって指示に従ったのに、ボクのこれが許されないのは不公平では?」
「う、」
我ながら狡猾な言い方だと思う。だがこちらだけ我慢するのはおかしな話、至極正論だ。回した両手にはもらったプレゼント。それで彼女の前を遮る。これを外してでも逃げようとはしないだろう。心底姑息な手だなと喉を鳴らしそうになった。
「呆気なく捕まって、危機管理は大事だってさっき学んだでしょうに」
さっきの番組と真反対な警戒心のなさに、にやにやと口端が上がってしまう。
「だからそれとこれは全く違いますし、私は、──」
荒げそうになった直後、廊下から足音が。
「おーい、店長ー」
近づいてくる呼び声。ジン太や雨に「あっ」と声をあげそうになったゆかの口を後ろから自分のそれで塞いだ。
代わりに「ん、」とこぼされた幽かな嬌声が艶かしい。その声の方が聞かれたらまずいのではと脳裏に浮かべながら、湧き出る慾は止まらない。
──あなたがこうさせるんですよ、わかってますか。
「静かにしてないと聞こえますよ」と更に小さく囁いてからもう一度。
また一度と離して、呼吸をさせてからまた口を塞ぐ。啄むように浅い口づけを繰り返した。気息や声が洩れないよう深く苦しいものは控えた。つつ、と糸を引いた唇。とろんと垂らした眦に、細められた双眸が潤みを伴いはじめる。
「うら、らさ、」
名前を紡ぎきる前に再び慾を押さえつけ、舌で歯列をなぞる。口だけで口内を侵す行為はまた喜悦だった。こんな最低な嗜好を持ち合わせて、雪のように純白な彼女を墨で汚しているようで、正直目の前がチカチカと眩むほど、己を掻き立てた。
──ああ、狂おしいほどこの瞬間が、貴女が愛おしい。
手を放したらがくんと落ちてしまいそうなゆかの腰元をぐっと支える。たったの少しの口吸いで腰砕けに近くなってしまうのだから、たまったもんじゃない。自分の行いでそれほどに感じてくれることが何より嬉しかった。
こちらの下腹部にも次第に熱を持ちはじめる。流石にこんな納戸で盛ってしまっては場所も時間もよくない。己の近づく限界を彼女へ知らせるように、熱くなる腰を擦り付けた。これほどこちらも昂っているんですよ、という証だった。自身の日くらい、誕生日くらいは劣情を強く押し付けてしまうのは赦されないだろうか。普段は貴女にそんな姿を見せていないのだからとなけなしの理性が蠢いた。
「静かに」
気配を感じ、耳元で告げてからその口許を指で押さえた。
ガッと納戸に手がかかる。引き戸越しに誰かがいるのは明らかだった。
引こうにもつっかえ棒が邪魔して動かない。これが子供達だったら声をあげて疑問を発する。これが大人の誰かだったら立ち去るだろう。その理由もだいたい察してくれるだろうと踏んでいる。
暫くじっとしていると、読み通り納戸から去っていった。大人となれば昔馴染みの誰かだろう。
彼女とほっと胸を撫で下ろし、息を整えているとゆかが不服そうに自分をひと睨みした。そちらがその気にするよう焚き付けたんですよ、と居間での会話を思い返す。
「……言ったじゃないですか、二人きりになれる別の世界へって」
世界が終わろうとも終わらなくても。今はそんなことどうだっていい。安寧が脅かされるのであれば対処するまでだ。
貴女が隣にいれば、その場所が隔離された空間であるのなら尚のこと、この二人の関係が自分たちにしかわからないままで在り続ければいい。
「それなら今この空間が二人きりの世界ですよ」
軋みそうなくらいぎゅっと抱き締める。横目で貴女を窺うと、赤眼に潤んだ瞳がこちらを見据えていた。今にも溢れそうなその雫は、直前の行為が扇情的だったからですか。それとも伝えた本意に駆られて感情が露わになったためですか。そのどちらでも自分にとっては都合がよく、貴女をそんな表情にできているこの驕りでさえ、この誕生日の贈り物だと思って受け入れてしまう。
「そんな、世界の終焉でもないのに、」
「ええ、ですからそんな些事は今は考えなくていいんです。こうしてゆかさんと共に居られたら」
その先が俗に云う天国だろうが地獄だろうが、自分本位のためにこれからも最善を尽くすのでしょうから。