須臾の刻を慈しみ (HBD in 2020)
一人暮らしの小さな部屋。
喜助を招き入れ、二人きりの静閑な年の瀬を迎えていた。部屋明かりを少し落としてから両手で運んだのは丸く控えめなチョコレートケーキ。ちょうど人数分、二本の短な蝋燭に火を灯し、そっとローテーブルに置く。
「浦原さん、改めて。お誕生日おめでとうございます」
ゆかは大袈裟に告げることなく祝福を囁いた。
「さっきアタシの店でお祝いしてもらったばかりなのに、」
いいんですか? と謙遜しながらも嬉しそうにしている本日の主役に、もちろん、と返した。
あと数時間でその主役も終わってしまうのだけれど、終わりまでにはこうして時間を設けさせてくれることが、細やかな喜びだったりする。三界がなにかと物騒だといつ何が起こるか分からないから、今年も何事もなく穏やかにお祝いできてよかった、と一年を総括していた。
「いいもなにも、私がお祝いしたいんです」
商店で皆から「店長、おめでとう」と祝福される姿はたくさん、この胸に焼きつけてきた。雨からも「キスケさん、いつも寒そうだから」と、小さな箱のプレゼントを貰っていた。その中身は進捗具合を眺めていたから知っている。
先ほどの出来事を思い浮かべ、ふ、と足元に視線を落とせばさっそく。今は素足ではなく、紺色の毛糸で編まれた足袋型の履き物。彼の下駄に合わせて、ぬくぬくと。いつもの見るからに寒そうな姿と比べてとても暖かそうだ。
「靴下、お似合いです」
頬を綻ばせた喜助は、いいでしょう、と足を上げて見せてくれる。
雨が編み方の本と睨めっこしながら、空いた時間に一生懸命編んでいたのを時折り見かけていた。恥ずかしそうに隠そうとしていたけれど、本を見て難しいところを一緒に解決したあたりから、キスケさんに靴下を編んであげるんだ、と隠さずに教えてくれた。二人で同じように喜助のことを考えているんだと知ると、愛に満ちた数週間となって、ゆかは雨の想いに絆されていた。
「雨ちゃん、頑張ってたから」
「じゃあお年玉は弾んであげないと」
人の頑張りは見えなくてもいいけれど、どれほど尽くしていたかくらいは第三者から伝えていいと思う。そして彼女の成果もあってか、とてもしっかりとしたものとなって。紺と緑の二足分が出来上がった。
「いやぁ、祝われっぱなしの一日ってのも悪くないっスねぇ」
何百年生きてもおめでとう≠ヘやっぱり嬉しいようだった。
「年に一回ですから、祝われるのは当然の権利ですよ」
深く考えずそう返したものの。
現世へ追放されて百年くらいはお祝いなんて縁遠かったのかもしれない、そう思うと質素な誕生日がこれまでの普通で。今現在が彼にとって新しい誕生日なのかも、と思えば思うほど、もっとそれを甘受してほしいと願った。
だったら尚更、皆からたくさん祝福される彼を見られて幸せだ。生誕の記念日は死神人間、人種なんて関係なく祝されてほしい。
ああそうだ、テーブルの方へ意識を戻すと。
蝋燭の火がゆらゆらと揺れていて、消されるのを今か今かと待っているように見えた。
「どうぞ吹いてください、二度目ですけど」
「そういうのは例の歌を歌ってからじゃないんです?」
「え、あ、さっき雨ちゃんと歌いましたし」
ええー、と駄々をこねる喜助に、蝋が溶けちゃいますから、と独りで歌わなくていいように急かした。
仕方なさそうにふうっと火が消され、煙のにおいが幽かに鼻孔を掠める。さらに部屋が仄暗くなってしんと静まりかえった。
すぐに部屋の明かりをつけないと。暗闇の中で動くと、「うわ」横からぐいっと腕を引かれた。一瞬だけ抱き寄せられて「ありがとう、ゆかさん」と耳許で囁かれ。今度はこちらが火を灯したみたいに熱を帯びていった。
「……で、電気つけなきゃ」
小さく呟いて喜助から離れる。
ようやく戻った部屋明かり。喜助から愉快げに「あらら、お顔が真っ赤」と揶揄されたけれど、誕生日特権でお咎めなしにしておく。
赤面症が治らないまま、どうぞ、と取り分けたケーキを差し出した。もういいですよと断るかなと心配したが、喜助は「二回もいただいてしまって」と謙遜気味にひと口、含んだ。
「二回って言ってもさっきはショートケーキだったから」
味が違うでしょ? とゆかもパクリ、甘味を頬張る。
「ひょっとして、ゆかさんが食べたいだけじゃないっスか」
「えっいや、……味変が必要かなって、思って」
「顔に書いてありますよ、食べたいって」
「そ、そんなこと書かないですよ」
敢えて少しビターなチョコにして正解だった。
苦味の中に残る控えめな甘さが際立って、とにかく最高に至福を感じる。
「んー、でも甘いもの食べるとほっぺが落ちますね」
半ば開き直ると、喜助もゆるく眦を垂らして同じように微笑んだ。甘党攻撃をして今更、彼がそれを欲していたかは分からないし、自分が食べたいだけというのは少し図星だったけれど。── あなたと同じだけの幸せを共有したかったから。
そんな言い訳を秘めながら、ケーキを味わった。
そうして、あとはのんびりリビングでテレビを眺める。
今日は日中を浦原商店で過ごしたこともあって、夜はうちへ来てくれた。以前のように都心まで出ても良かったが、喜助の要望もあって家に居ることに。
彼曰く、この狭い部屋が落ち着くらしい。商店の居心地に比べたら閑散としているし、そこには賛同しかねるが。よくよく思案した結果、これって普段の休日と変わらないのではとゆかは気づいた。
「テレビでいいですか? 映画とかにします? お外に出てもいいですけど」
せっかくの誕生日なのに良くないかも、と案じての気遣いだった。
「いえ。お外ではしゃぐのも、こうしてまったり過ごすのも、別の良さがあると思うんで。普通に特番流してていいっスよ。この年末感が楽しいですし」
確かに年末の特番は面白い。お祭り騒ぎが童心へ戻らせる。彼の心遣いに感謝して、ゆかも「わかりました、そうしましょう」とそのままにした。
あははと響く番組の笑声につられて自分も声が出る。最近、バラエティを見る機会がめっきり減ったせいか、お酒もないのに笑い上戸みたいに頬が緩んだ。喜助は、今日はよく笑ってますね、と一瞥しては眦を垂らしている。揶揄してるとも捉えられるけれど、今日に関しては全てお咎めなしだ。彼が楽しければ、それでいい。
──こうやってまったり過ごす大晦日も、いいなあ。
平穏に浸って、多幸感を噛み締めて。
その合間にケーキを頬張るから、忙しいったらない。一方の喜助はどうなのか分からないけれど、お口が忙しそうには見えない。いつも飄々と振る舞っているせいか、落ち着き払う姿が崩れることは少ないのかもしれない。そういうところが彼らしくて好きなのだけれど。
トントン、と肩を叩かれて振り返ると、むに。
──頬に刺さる人差し指。
左へ向くとそれはそれは愉しそうに口角を上げる喜助が。
「あはは」
「あはは、じゃないんですよ。なんですかこれ」
「知らないんスか? この遊び」
「知ってますよ!」
だから小学生みたいなことされてなんだと聞いたのだが。じっとりとした眼差しを送ると、喜助はその人差し指で弾力を確かめるようにして押してくる。ぷにぷにと音がしそうなその行為は、一体なにがしたいのか。
「いやぁ、ゆかサンの落ちたはずのほっぺたが丸くて柔らかそうで、つい」
「……遠回しに太ったって言ってます?」
「ははは、違いますよ滅相もない」
冬はいっぱい食べてしまって年末休暇からは一層食欲が止まらない。自制がきけばいいのだけれど、美味しいものを敢えて我慢するなんてどうしてもできないのだ。ケーキだって二種食べたいのだから仕方がない。
それに正月はテッサイがお節を振る舞ってくれると言うから正月太りは確実だ。なのにもう現時点で丸くて≠ニ指摘されてしまった。
「浦原さんってときどき冗談なのか本気なのか本当にわからない」
「そりゃあアタシはいつでも本気っス」
「……じゃあ、やっぱり太ったってことでは、」
「このぐらいが可愛らしいと思いますけどねえ」
「せめて否定してくださいよ」
増加したにしても多少自覚がある。少し控えないとなあと思いながらも、これ以上の話題は墓穴を掘りそうなのでゆかは口を噤んだ。
「はい、あーん」
この音頭を取られると不思議と口を開けてしまうのが人間の性で。いつの間にやらフォークに刺さったケーキが目の前に運ばれていて、ぱく。
前言撤回。控えることは困難だと理解すると、甘味を舌の上で転がしていた。
「……そうやって餌付けするからですー」
まるで鳥のそれ。意志を持ってもぐもぐしているのは自分なのに、肥える原因を喜助へ責任転嫁した。
「これがいいってさっきから言ってるじゃないですか、伝わんないかなあ」
「伝わりません! 私が言ってるのは、なんていうか、せめてもの女心ってやつですよ」
いや、自分で食べておいて女心もへったくれもない。
けれど肥えたことをその通りに認められてさらには肯定されると、女としての矜持が危ない気がした。
「残念ながらそれを理解するのは難しいですね、ハハハ」
なけなしの女心を理解する気もなさそうに返されてしまった。
「もう。浦原さんがいいなら気にせず食べちゃいますけど」
「だって、昔にクリスマスケーキを子供たちに用意してくれた時も二種類ありましたもん。アタシが気にするしない以前の話っスよ」
「う、」
ど正論の上に、彼の記憶力が大変よろしくて。あの出来事を思い出すと一気に項垂れたくなる。喜助の言うとおり、過去、抜け出して買いに行った苺のショートケーキと木こりを模したブッシュ・ド・ノエル。確かにあれも同じだった。
「よく憶えてらっしゃって……」
「もちろん、あの夜のことは憶えてますよ」
「忘れたってウソ言ってたのに」
「まあ、そんなこともありましたねぇ」
なんでもない回想に花が咲く。あの頃が花かどうかは今となっても分からないけれど、こうして彼から振ってくれて。懐古とともに当時を振り返ることができて、些事なことが嬉しかった。
「そんな物覚えのいい浦原さんにこちらをどうぞ」
ゆかは唐突に横長の箱を取り出した。
「おや、まだなにかくれるんスか?」
「私からはなにも渡してなかったので」
包装を破ってから箱を開けると、彼はまじまじと手にしていた。
「……これはこれは、立派な。江戸扇子だ」
最初と同じようにまた、いいんですか? と聞いてくるので図らずも、ふふ、と笑みが零れた。
「ですからいいもなにも、私がお祝いしたいんです」
全く同じ返し。まるで時を遡って誕生日を繰り返したような気になる。何度でもいつだってお祝いしてあげたいけれど、年に一回の特別な日だからヒトはその日を大切で特別にしたいと願う。それが少しでも伝わったらいいと秘めながら、──。
「よかったら今のが壊れた時にでも使ってください。浦原さん、扇子はたくさんお持ちかもしれませんが」
「そんな、大層なものを。ぜひ大切に使わせていただきますよ」
「はい、きっと長く使えますよ」
「長く、そっスね。……ゆかさん、いつもボクを想ってくれてありがとうございます」
「御礼なんて。大切な人を想うのは当然です」
へへ、と照れ隠しに一息。喜んでもらえて良かった、と安堵してから流しっぱなしにしていたテレビへ視線を移すと、キャッキャと騒ぐ芸人の声が元日への祭りを囃し立てている。
と、思いきや。下のテロップには『明けましておめでとうございます!』という新年のご挨拶。ハッとして時間を見れば零時を僅かに過ぎていた。
このバラエティ番組はカウントダウンを設けず、年越しの瞬間も面白い映像を流しているという特別チャンネルだった。普段テレビに疎いゆかは、そんな事とは露知らず。
「あっ。浦原さん浦原さん、どうしましょう明けました」
「アラ、うっかり明けてしまいましたね」
「私としたことが……特別番組をつけていたらカウントダウンし損ねちゃいました」
「ゆかさん、お祭りごと好きですもんねぇ」
「べっ別に好きというわけではなく、浦原さんのお誕生日を終えてしまったことが不覚だっただけで」
こんなあっさり、呆気なく。終えてしまってどうしたものかと悩んだところで、日付はもう変わってしまったのであって。
とりあえず二人して「あけましておめでとうございます」と新年のご挨拶を交わした。
次こそは、と意を決してゆかはすっと立ち上がった。
「はい、浦原さん。外、行きますよ! 初詣です」
「ええー。せっかく二人でいるのにまだあなたのお家でいいじゃないですか」
ボクの誕生日っスよ、と不貞腐れるのが子供みたいで可愛い。
「ああ名残惜しいですが、浦原さんの誕生日はもう終わってしまいましたので」
「数分前まではあんなに手厚くお祝いしてくれたのに」
喜助はボヤきながらも立ち上がった。
玄関へ向かうドアの手前で「ゆかさん、ちょっと」そう声をかけられ振り向くと、口端にちろりと舌先をあてられた。もう一度、ぺろ、となぞるように舌が這う。それだけでなく幾度か触れては離れて。外へ行くというのに駄々っ子かなと思えば──。
「あまい」
すぐに察して舐められたところを咄嗟に隠したのだけれど。隠したところで手遅れに違いない。喜助は自身の口端に指をとんとんと差しながら笑っていた。ほらやっぱり手遅れだった。
「残ってましたよ、チョコ」
気恥ずかしくも食い意地の残滓を拭ってくれたことへ、ありがとうございました、と礼を告げる。
これから初詣へ参るのに食べ残しがあったら神様に笑われてしまう。神聖な場所で無様な口周りを晒さずに良かった、と新年早々の意地汚さを反省した。
──いや、死神からは笑われてるんだけどね……。
カラカラと下駄の音色を響かせ歩いていく。零時半頃はぐっと冷え込んで。刺さるように冷たい空気を進む。二人で手を繋いだら、その手を暗色の羽織りのポケットへ入れ込んで暖を取りつつ。
行き先は神社の前に浦原商店。初詣は皆で行こうと決めている。商店近くまで来ると、店先には夜更かししている子供達とテッサイに夜一が外まで出ていた。
「あ、夜一さん!」
ゆかは喜助の羽織りから手を出して夜一の方へ駆け寄る。彼女は人型の姿で真っ黒のダウンコートを着て、オレンジ色のマフラーをぐるぐる巻きに口許まで覆っていた。ポケットに手を隠し肩を縮こまらせている様子は、寒いのに懸命に外へ行こうとする猫そのものだった。本音はこたつで丸くなりたいのだろう。
「神野、もう明けてしもうたぞ」
口許を隠してもごもごと。ようやく喋ったと思えば、新年の訪れを確認する言葉だった。彼女らしくてゆかは「そうですね」と上機嫌に返した。昨日の今日はワクワクしてしまう。喜び続きでお祝い続き。めでたくて嬉しくて仕方がないのだ。
「なんじゃ喜助も戻ってきおって。お主らも初詣へゆくのか、儂はてっきり、──」
ダウンコートに突っ込んでいる両手。その肘あたりをぎゅっと掴んで、ゆかは満面の笑みで告げた。
「夜一さん、お誕生日おめでとうございます!」
直後、夜一に抱きついた。
「な、なんじゃ、急に」と戸惑っている反応が珍しくて。可愛くて。
離れろとも言わず。抱きつかれてご機嫌を損ねたかな? と彼女の様子を窺うと、視線を逸らしつつマフラー越しに篭った声が聞こえた。
「……新年の挨拶じゃろ、普通」
ああそうか。この人もまた祝われ慣れていないのか、とゆかは先ほどの喜助の挙動を重ねていた。
二人とも素直に祝われていればいいのに、と心に秘める一方で、でもそれがこの二人の性格なんだよね、と一層愛おしさが深まった。
「こっちが普通です。私にとって元日は、新年である前に夜一さんの誕生日なんですよ」
真顔で祝福すると、夜一はポケットから手を出して荒々しく頭を掻いていた。困った際に表れる所作も昔馴染みの彼と似通っていて、とことん微笑ましい。
「お主のう、またそういうことを」
ふ、と夜一が目許を緩めると、猫の喉鳴らしがゴロゴロと聞こえた気がした。そんなはずはないのに、雑音どころか空耳のはずだけれど、今の彼女は喜んでいるのだと思い込むことにした。
「はーい、そこまでー」
背後にいた喜助が、首周りから両腕をだらりと垂らす。
「夜一サン、ボクの立場も考えてくださいよ」
引き寄せるように顎をゆかの頭部てっぺんへ乗せて、喋り始めた。
「悪いの喜助、今日は儂の日じゃ。ほれ神野、初詣には運試しに神籤を引くぞ」
ニヤリと口角を上げた夜一はゆかの手を引いて。先を行くテッサイと子供たちを追うように小走りで進む。
「わ、夜一さん。早い、早いから走らないで!」
スキップ程度だとしても、瞬神と崇められる彼女に追いつくのは大変で。脚が絡まってしまう。
「仕方ないんで今日だけっスよー」
渋々了承する声を背に、何度でも噛み締める。
──みんなで過ごす、この一瞬一瞬を愛していると。