月下翁、色慾の音 (HVD in 2020)
寒さ厳しく、舞う風強く。ガタガタと震える硝子戸を横目に歩く長廊下。そろりとお盆を運ぶ先は商店の縁側、夕飯を終えて数時間経つといつもの定位置に彼はいた。
「今日は月見ですか、それとも観察ですか」
胡座をかいて硝子越しに外を見上げる店主。
毎夜の見慣れた光景は彼にとって単なる趣深いものか、もしくは現世の安寧を気にかけてなのか。投げ掛けたのは、そんな些事な問い。
「どっちもっスよ」という端的な返事に「ではお勤めご苦労さまです」と後者を労った。
「ええまあ、日課みたいなもんスから」
こちらに向けた顔が緩やかでなんだか落ち着く。
「……ってお月見だと、今夜は雲がかって全く見えてないですけど」
膝を曲げたゆかは持ってきたお茶をコト、と差し出した。
「いやそれがボクには見えてるんですよねぇ」
面白おかしく茶化してるのかと外を見渡しても、映るのはどんよりと怪しい雲行きのみ。また彼にしか分からないお得意の話術なんだろうなあ、とゆかは首を傾げた。それもいつものことか、と口許を緩めながら和菓子を置こうとすると、──。
「ほら隣に」
並べた菓子に月に因んだものは無い。ということは、つまり、いやいや。
「……なに言ってるんですか、これ出張土産の草餅ですよ」
はいどうぞ、と楊枝と共に手渡す。しかし彼は待ち構えたように口を軽く開いていた。
「あれ、今日はてっきりチョコレートかと思っていたんですが」
手作りの、と少しだけ不服げに。
残念ながら今日は金曜日、遠出や残業もそれなりにあって前日や当日に用意することは正直難しかった。まあどれをとっても言い訳にしかならないので、
「あっテッサイさんお手製の草餅の方が良かったですかね」
と、こちらも若干の皮肉を混じえて返してみた。
「とんでもない、なにが嬉しくて男同士のバレンタインを過ごさなきゃいけないんスかぁ。勘弁してくださいよー」
彼は露骨に嫌がって眉尻を下げる。それはそれでテッサイさんに失礼だと思いつつ、だが先に皮肉を言ったのは自分だと心で日々の腕利き料理人に謝罪した。
「バレンタインとか、浦原さんも楽しんだりするんですね、意外です」
「そっスか? アタシは全力でイベントものを楽しむタイプっスけど」
「なんていうか、そういう手作りとか気にするんだなあって」
これまでたくさんの本命をもらっていそうだし、やっぱり駄菓子屋を営むくらいだし。それでも気にかけるのが男心、なのだろうか。
「なにごともベタなリアクションとか行事が好きですし」
それに、ふうん、と返しつつベタと聞いて頭に浮かぶものを口にしてみる。
「……手編みの、」
「マフラー」
わあさすが浦原さん、と手を合わせておだてれば、馬鹿にしてます? と一蹴するように笑われた。
「では、そのおみやの草餅をアタシにくださいな」
「はいどうぞって先ほどからあげてますよ?」
「そうじゃなくて」
彼はまた軽く開口して待ち構える。
もしかしてさっきも同じようにしていたのは、これを求めていたのか?
「あーん、っス。あーん」
やっぱり。これは遥か昔に自分がされた気がする。初対面で怪我を負っていた頃に。けれど自分からしたことはない。恋仲となっても普通に気恥ずかしいし、最後に揶揄われるのが落ちだし、食べる側から、はい、と音頭をとってもらっても屈服したような気がする。
今日くらいは仕方なし、とゆかが唇を一文字に結んだまま草餅を運ぶと、喜助からすかさず指摘が入った。
「はいそこ、ちゃんと『あーん』って言わないと」
言う姿は実に愉しそうで。抵抗虚しく諦めた。彼の思惑通りに進むことを不満に感じながら「……あーん」と小さく声にした。
そっと楊枝で草餅を喜助の口に持っていく。このまま口内目がけて放ってしまえばいいのでは、とずる賢いことが浮かんだが流石に大人気ないので控えた。
喜助も口を半開きにして寄せ、単に食いつくのかと思いきや。彼はこちらの手首を掴み、くい、と引いた。そして草餅に食らいついた直後、楊枝を取っ払った喜助はなんと指先に吸い付いた。急な行為にゆかは身を縮めて驚愕を露わにする。堪らず手を引っ込めようとしたが、逃すまいと掴まれた手首がそれを許さず。何故か指先だけが彼の口許に取り残されていた。
「……ん、美味しいですねぇ、こし餡」
頬に草餅を頬張りながら、自分の指先に唇を這わせる姿。
目線は決して落とさず、寧ろ見せつけるように。鋭くも穏やかな眼光をこちらに向けていた。
「ひ、な、ななにして、る、」
擽ったい指先と予期せぬ色目に、途中で言葉が消えかかる。
「なにって本命をいただいてるんですが」
笑みを浮かべずに言うのは勘弁して欲しい。いつもみたいに妖しく口角を上げてくれればまだ冗談だって取り合うのに、こんな、こんな……。
「知ってます? よその国ではバレンタインは男性が女性に、または互いに愛を囁く日だそうで」
知る知らない、どちらを答えたところで一気にほとばしった恍惚感を取り消すには手遅れだった。
「チョ、チョコが欲しかったのなら、あした、雨ちゃんと作る、予定、なので、」
咄嗟に並べた声はまるでうわ言のように。いや、火照る熱のせいで出たうわ言だ。今この状態で自分でさえも何を言ったのか、よく分かっていないのだから。
すると喜助は指先に這わせた唇を、人差し指の付け根、手の甲へと順を追って移動させていく。無音の中に響くのは、等間隔で鳴る湿った音。恥ずかしい音、他の誰にも聞かれたくない音。
ちろ、と生温かい舌先が甲に触れると軽く身震いがした。唇の感触とは違うそれに、ぞくぞくと肌が波打つようだった。
「チョコももちろんですがね、」
発する度に甲へかかる吐息。
その様を眺めることしかできずにいると、いきなり上目に見られ。視線が交差した途端、より近くへと手を引かれた。ぐっと距離が縮まると、彼の横跳ねする襟足が視界に広がる。仄かに鼻を掠める女にはない、男性の馨り。見えない表情を補うように、彼の真剣なそれが脳裏に過ぎると、──低音が耳許を擽った。
「ボクへの愛を紡ぐ、ゆかさんがほしいんですよ。
……ただ一心不乱に、僕の腕の中で啼く、僕だけのあなたを」
直接的、かつ情熱的な要望。
ゆかは目を白黒させながら返す言葉を探していた。喜んで。とも、もちろん。とも言うのは性に合わないし、この甘ったるい空気に似つかわしい返しが浮かばなくて。
「……なーんて、ベタなこと言うのも好きでしてね。プレゼントはアタシ、的な」
悪くないでしょう、と。その声色で、心に浮かべた彼の表情がへらへらとニヤける顔に切り替わった。
一旦ゆかは身を引いてから喜助と顔を合わせる。そこには案の定、いつものどおりのふやけた笑みが。
「う、浦原さん……! もう、急に迫るのはびっくりします、私には心の準備が、」
「ははは、いやぁいつまでも初心な反応で、楽しませてもらってますよ」
「だから、そういったことは順序よく、なるべく低刺激で……」
「ええ、ですからこうやって本気を交えてるんですが」
「どこから本気でどこまで冗談か線引きがいまいち、──」
分かりません、と言い終える前に唇が塞がれる。触れるだけの優しい感触を残して。
「……ぜーんぶ、本気なんスけどねえ」
にんまりと垂れる喜助の眦は、雲の向こうに浮かぶ三日月のようだった。