縫い合わせた約束を (HBD in 2019)


§


 最後の月もあっという間に三十日、午前様まであと一分と差し掛かった。
 夜中にも拘らず少しの眠気もない。それどころか高鳴る緊張と喜びにゆかは心躍らせていた。その理由も言わずもがなか。明日という特別な一日を何度想い巡らせただろう。元の場所に居た頃も、祝えなかったあの夜も。変わらずそわそわしていたけれど、今回も似たような心持ちに成長はしてないなあと感じる。

 ──やっと、きた。

 だが今年は違う。心に描いていた日を面と向かって祝える。
 嬉しさをあまり押し付けたくはないし、然程大した用意はしていないけれど、悟られないように今日までを過ごしてきたつもりだ。ゆかは居間で見ていたテレビを消して、立ち上がる。そして喜助の自室へ。ふう、と整え、引き戸に軽くトントンと合図を送る。

「浦原さん、入ってもいいですか」

 もう何度も訪ねているのに、今のは少し強張ったかもしれない。

「はぁい、いいっスよー」と間延びした声の後に、失礼します、と首を垂らした。

 今夜の喜助は畳へ直に座り、低い机に向かっていた。
 部屋明かりは卓上証明のみ。橙色の燈りがぼんやりとして冬場に相応しい温かみを感じる。背骨を曲げた丸っこい後ろ姿。筆をとって文書か何かを書いているように見えた。ゆかは彼の日だからと邪魔にならぬよう控え目に膝を折る。

「……と。お待たせしました」喜助は目をしょぼしょぼさせながら振り返る。
「あ、いえ、お作業中にすみません。ひと言だけ伝えたくて」それは誰よりも早く一番に、でも仕事は遮らないように。

 ここずっと篭りっきりだったので予想はしていたが、どうやら彼は日付が変わった事に気づいていないらしい。喜助の「なんでしょ、」と疲弊し切った頭を傾げる姿に、自分の日くらいちゃんと覚えて休んでいればいいのに、と彼らしさに笑みが零れた。

「浦原さん。お誕生日、おめでとうございます」

 お祝いは疎か想いですら伝えられなかった数年前。
 この世界に踏み入れてはならないと留まったあの日。自身へ様々な言い訳を重ねていたが、本当は。ただ勇気が出なかった。だからいつか言えるその日まで、と自分の心に蓋をした。こんな単純なことが当時はとても困難で。だけど今は、この瞬間を想いのままに喜べる。

「ありがとうございます。……おや、もうそんな時間になってましたか、」

 やはり忘れていたのか、彼は長針が少し進んだ壁掛け時計に視線を向けた。
そして「遅い時間にわざわざ来てもらちゃって」と照れ臭そうに顔を見合わせる。ああ普段からあまり祝われ慣れていないんだろうな、と思わせるには十分な表情だった。

「いえ、一番に伝えたかったので。でも続きは明日の朝にでもまたお話させてください。今日はもう遅いですし」

年の瀬はきっと忙しいだろうからこの続きは喜助の都合が良い時に、とゆかは片足を立たせて出て行こうとした。

「お話……なんで今じゃなくて明日の朝なんスか?」
「えっ、浦原さんまだお仕事してるかなって。ここずっと篭ってたから何か納期があるのかと」
「それはゆかさんお得意の早とちりっスね」
「そう、なんですか?」

 早とちりが得意かどうかは分からないが、気にしすぎだとはよく言われている。関係が変わってからより相手を想い、慮るばかり遠慮してしまう行動。いや、変わる前から考え過ぎて場違いを感じることは多い方か、と我が振りを見つめ直した。

「……この日のためにずっと忙しくしてたんスから」

 ゆかはようやく思い違いに気づいた。はっと上げた気息に続けて、彼が言葉を重ねる。

「さてはアタシが自分の誕生日を忘れてるって思っていたんでしょう」

 図星にコクンと肯くと、喜助は知ってたという風に笑った。

「ざーんねん。こう見えてもアタシは物事を計画的に進めるたちなんでね」

 確かにそれは彼の性格だろうと思う。かつての決戦、総隊長から受けた指令の納期を早め、たったひと月で仕上げてしまった彼。敬意感心が湧き上がった瞬間だった。脳裏でそんな過去を思い返していると、彼は続けた。

「では何故、今日まで根詰めて作業をしていたか。それは今日一日、限られた二十四時間を全てあなたと過ごすためですよ」

 分かりました? と顔を近づけて確認してくる喜助に、ぽっと頬に熱が上がった。

 ──……十二月入ってから何かと理由をつけて断りが多かったのも、

 この日のため、しかも自分と過ごすため。
 こちらがサプライズや何かを考えたとしても、結局向こうが先手を取ってしまうのだから堪らない。付き合っている関係に進展しているのに、こうも簡単に手のひらの上で転がされる。またも感じる成長の無さに項垂れそうになった。

「ええ、分かりました、けど」

 どうしよう。一度立たせた片足を戻したものの、その先のプランが何もない。細やかながら用意したプレゼントも日中に渡そうと思っていたので今は手許にない。祝いに来たにも拘らず、何のもてなしも出来ない事へ焦燥が走った。

「んじゃ、今晩はもう遅いですから寝ましょっかね」
「あ、はいっ」

 押入れから布団を出そうとする喜助に、「いえ、浦原さんは休んでてください、私が」自ら進んで手伝った。此処ぞとばかりに前に出たものの、今はできる範囲で労ってあげればいいかと、せっせと運び出す。

「お布団、ここに敷きますね」
「ありがとっスゆかサン。いやぁ、こんなに積極的だなんて。誕生日も悪くないっスねぇ」

 ぎく、と肩が跳ねる。そうだ。相手の誕生日、恋仲ならば当然の成り行き。だが自分が不器用なだけなのか、向こうに気を遣わせているのか、こちらの世界へ戻ってきてからまだそういった行為には及ばず。無論、彼が望むのならば断らないし、それなりに心と体の準備は進めている。
 今日は彼の日だ、彼の欲するのならそのとおりに、──。

 ──大丈夫、落ち着けば、なんてことない。

 ゆかは布団を一人分だけ敷いてから俯き加減に正座した。

「ゆかさん、」呼ぶ名と共に、彼の息が耳元へかかる。更に近づこうと耳周りに垂れる髪にそっと触れてかけていった。冷たい指先に思わずピク、と反応してしまう。拒んではいない。寧ろ求められるのは嬉しい、はずなのに。緊張が悦びの前に立ちはだかって、心臓がうるさく高鳴り始めた。どういう反応、どういった心構えが正解なのだろう。

 とるべき所作が不明なまま、ゆかは囁かれた名に返事することなく、目蓋を閉じる。無言の合図を送り、喜助からの行動を待った。
 露わになった首筋へ優しげな唇が触れる。それは音を立てることなく温かな人肌の湿りだけが残った。そしてもう一度。敏感な皮膚へ続けてあてられると、「ん」と上擦ってしまう。声を伏せることはできなかった。そのまま、次の行動を予想しながら待つも、彼からの口づけは途絶えてしまった。
 若干の拍子抜けを感じたゆかは、「へ、」と頓狂な声を晒した。開けた視界の先には、にこやかに笑む喜助が。いつもの様相で待ち構えている。

「そんなに緊張しなくても、まだしませんから。だから強張らなくていい」

 どうしてだろう、即座に浮かぶ自問。それに対する自答に、自分に魅力が足りないからなのかな、と一瞬だけ心に翳りを覚えた。

「勘違いをされては困りますから恥を忍んで言っておきます。もちろん、ボクとしては大歓迎っスよ。ですが一方の独り善がりでコトを進めることはしたくない。たとえそれが据え膳であっても」
「え、あっ……恥を忍んでってそういう、」

 彼特有の言い回しがどこか遠回しで、すぐに合点しなかった。据え膳食わぬは男の恥、とは聞いたことがあるけれど実際これがそうなのかはわからない。いや、自ら正座して目を瞑った行為に関しては、快くお膳立てしたように思われても仕方がないが。

「アタシのための咄嗟の判断とは言え、身を挺して尽くそうとしてくれたのはとても嬉しいんですがね」
「なんか改めて言葉にされると雰囲気もなにもなくなるって言うか……」

 自身の勇気ある行動を奉仕のように歪曲され、本当にこの人は……と下瞼がピクピクと引きつった。それも喜助らしい一面ではあるが、本当に良いのかとゆかは微かな不安を投げかけた。

「でもせっかくの浦原さんの日です、私は、」

 拒んだりしない、と続けようとした声は遮られた。

「ボクがあなたを欲するように、ゆかさんにもボクを欲してほしい」

 強めの語気。彼の気持ちを理解できた気がした。彼女という近い立場でありながら情けないが。先ほど言われた独り善がりの意味も、ようやくだ。でも自分だって貴方を欲しいのには変わりないはずなのに、何故いざとなると及び腰になるのだろう。測れない情愛の大きさは、男女の違いだけで片付けられるのか。そんなことはない。

「いえっ、私だって浦原さんとなら、──」

 そこまで言ってから、徐に下唇を親指でなぞられる。

「大丈夫ですから、なんて言わせませんよ? 女性にそこまで言わせてしまったら身を引く訳にもいかないんです」

 告げようとした想いを先に悟られ図星のまま口を噤む。
 すると喜助は、僕はただ、と独り言のように小さく零した。

「……あなたにはボクを心から望んでほしい、ただそれだけっス」

 逸らした視線は彼には珍しく、恥じらいのような色が宿っていた。あの喜助が自ら羞恥を晒している、なんて。初めてのことで驚かざるを得なかった。
 一瞬、触れた親指が緩んだ隙に声を挟む。

「う、浦原さん、かっかわいい、」

 え、どうしよう、かわいい。堪えきれない愛おしさがぽろっと零れ出ていた。

「……いやあの、可愛いはないでしょうよ……」

 せっかく紳士的な振る舞いをですねぇ、と続ける。
 でも喜助は告げた否定よりも嬉しそうに、参ったなあというような笑みを浮かべてくれた。別の角度で見たら照れているようにも見えて、一層かわいく思えた。

「はは、すみません。かわいいって思ったらつい口から出ちゃって」

 彼は、はあ、と息を落としながら頭を掻く。と同時に唇へ触れていた熱が離れた。

「あーでも、つまりはそういうことっス。望めば体が自ずと動くもんだ、と言いたかったんで。それが合致するまであなたもボクもお預けってことっス」

 どうやら自分でも知らぬうちに真っ当な事を口にしていたらしい。『可愛い』はそれほど彼を落胆させてはいないようでほっと安堵した。

「わかりました、じゃあこういうことですね?」

 ゆかは思いついたと喜助の首裏に両腕を回す。そしてそのままギュッと近づき耳許で、おめでとうございます、と囁いてみた。
 流石にこれは大胆な行動だったかもしれない。喜助の表情は見えないし、でも自分の朱に染まった耳も見られてはいないはず。ただ、抱きつきたかったから抱きついた。おめでとうと伝えたかったから告げた。彼の理論を体現しただけだ。

「あらら急にきますねぇ。はい、こういうことです」

 今度は喜助がこの体勢のまま敷布団の上へ覆い被さった。
 恋人による押し倒し。これだけだと情事に及ぶのだろうと想像に容易いが、彼の言い分ではそれはないのだから不思議だ。自称エロ店主なのに、同衾するのかと思いきや、子供とするような添い寝。

「なので。今晩は部屋に戻らずに此処でどうです?」

 ここまで来たらてっきり共に寝るものだと思っていたのに、こうやって要望を押し付けずに『どうです?』と窺ってくれる。いつにも増して誠実に富んだ姿勢も、底抜けの優しさを感じてしまってだめだ。いやちっとも駄目ではない。けれど絆されてしまって、堪らない。

「私も浦原さんと寝たいです、あっ、まだそういう別の意味合いではなく、」
「あはは、わかってますって。さっきボクはあなたが望むようにしたいと言ったでしょう」

 押し倒されたような体勢のまま交わされる際どい会話。二人の想いが間違わぬよう話し合うのは大切だと思うが、この格好はやっぱり恥ずかしい。

「でも、我慢してません……?」
「そりゃあしてないと言えば嘘になりますが、男ですし」
「あ、やっぱり……すみません」
「はいそこ、謝らない」

 意気地の無さについ癖で謝罪が出てしまうも、ピシャリと諭された。

「それに長いこと死神やってて気づいたんス。人間の歩みに合わせていく、と言うより、その短い歩みの中でどのようにしたら同じ景色が眺められるか、が重要なんじゃないかってね」
「んー、なんだか哲学的ですね?」
「科学者が哲学的な思考持つのは些か矛盾が生じますが、まあ、簡単に言えば、あなたの立場になって物事を共有して同等に歩んでいきたいということっスよ」
「あっそれならわかります、私もです。私も浦原さんと同じものを食べて同じように美味しいって言いたいですから」

 食べ物で喩えてしまって、へへ、とふやけた笑みを晒した。
 まだまだ不器用で不完全な寄り添い方ではあるけれど、こうして二人が想いを確かめ合い、同じ方向を視る。この瞬間が、堪らなく大好きで。今はまだ彼に甘えてこの朗らかな気持ちを味わっていたいと思ってしまう。

「そりゃ良かった、」

 彼の両腕に抱き締められながら少しだけ掠れた声が降ってきた。大晦日まで勤しんだ彼はもうお疲れのようだった。

「浦原さんの日は始まったばかりですから、一日まるっと楽しむためにそろそろ寝ましょうか」
「ええ。明日、というよりもう今日っスね。存分に楽しみましょ」

 よっ、と身を翻した喜助は手を伸ばして部屋の灯りを消した。真っ暗になった部屋で重なり合う二人の気息が心地良い。彼は暗闇の中からかけ布団を引っ張って体を覆った。そうして横に並ぶと、何も言わずとも喜助の腕が首下へ回される。腕枕は此方の世界へ戻ってきた時にもされていて、きっとこれが好きなんだろうなあ、と勝手に思っている愛情表現のひとつだ。

 ぎゅっともう片方の腕で上から抱きつかれ、脚を絡められる。ああもう、「えへへ」と図らずも笑みが溢れてしまう。その理由も解っているはずなのに「なに笑ってるんスか」なんて訊いてくるのだから狡い男だ。敢えて言わせるのなら、こっちだって言いたくなる。

「私、これ好きです」
「ええ、知ってます」
「すごく幸せを感じます」
「それも知ってます」

 喜助は仰向けのゆかに一層軋むように抱きついて、肩口へと顔を埋めた。

「ふ、やっぱり髭はくすぐったい」
「当ててるんですよ、寝たらボクを感じられなくなるでしょ」

 すり、と擦り寄せる姿が可愛らしくて。動かせる方の手で頭を撫でてあげた。

「でも寝なきゃ」
「はい、おやすみっス」

 喜助は唇に触れるだけの口づけを落とす。
 我が儘かもしれないけれど、彼が唇を求める時は不思議と自分も欲していて。彼の読心術でそれまで読まれているのかな、と思うと好きの気持ちがどんどん肥大化して止まらない。心からあなたを望む時は、あなたの視るものと同じ景色が視えるのかな。早く追いつきたいな、そんなことを考えていたら眠気が意識を奪っていく。ああなんて幸せだろう、あなたもそうだといいな、──。

§


 目が覚めて、そこには恋人がいて。
 空気の澄んだ冷たい真冬の朝、温とい布団。あ、今日は待ちに待った誕生日だと思い返したら飛び起きた。眠そうな喜助を起こすより寝かせた方が本当は良いのだろうかと一瞬考えるが、今日ばかりはそれをしたら駄目な気がした。「朝ですよ」と喜助を軽く揺すると、ふぁ、と緩い欠伸をしてから目を擦る。

「ん、おはよっスゆかサン」
「おはようございます」

 布団の中でぐーっと伸びをした喜助はやっとお目覚めのようだ。

「えーとっスね、今日は色々と行きたいところがあって。お付き合い下さいますか?」

 そんな聞かなくても連れ回してくれていいのにと思うも、考えてもみたら彼は自分本意の行動をあまりしない。普段の休日も自宅か商店で過ごすことが多く、デート自体に新鮮味を感じた。

「もちろんですよ、今日はお誕生日ですからどこへでも」と告げたものの、何処へ行くのかは聞かされなかった。年末の大晦日だし、きっと行きたいところがあるのだろう。

 こうして訪れた誕生日。一緒に外へ出ることだけでワクワクした。元より喜助のしたいことを、と考えていたゆかは彼自ら外出を申し出てくれて嬉しかった。ただ、若干身構えていた夜の情事についてはまだその時ではないと諭されてしまったが。

 ──もう少し私が大人な振る舞いができたら、プレゼントは私です! とか言えるんだろうけど……。

 それは中々にハードルが高く難しい。
 しかし彼の要望もあってか、たとえ恋仲であっても二つ目にそれという事もなかった。ただ喜助にも我慢はあるようなので心苦しく申し訳ない。求められて嬉しいのに、緊張と不安でどうしても体が強張ってしまう。
 一方で抱いてしまう安堵感は、恋人として情けないばかり。葛藤の狭間を越え、大丈夫だと伝えたところで、彼は自分が心から欲するときを望んでいる。それに自分も応えたいと思ってしまい。都合がいいように甘えているだけなのかもしれない。

「準備できました? 行くっスよー」

 かけられた声に、雑念を取っ払って廊下を小走りに行く。
いそいそと浮き足立ちながら店先まで出ると、彼の瞬歩でいきなり都心近くまで出た。

「……あっ浦原さん、それ、」

 掴んでいた作務衣の傍から離れた時に、ふと目に入ったもの。

「ああ、懐かしいっスか? ゆかサンから戴いたマフラー」

 首に巻かれた真白いそれ。かつてはまだ関係も何もなく、居候だった頃。クリスマスが訪れ、商店のメンバーに贈った品のひとつだった。緑と白の縞模様を愛する彼だから作務衣の色味に合わせて白にした。そんな単純な贈り物だったけれど。瞬間にあの頃の記憶が蘇って、それを使ってくれて嬉しくて、様々な想いが駆け巡った。

「わ、嬉しいです! とっておいてくれたんですね!」
「とっておくどころか、貴女の前で巻こうと心待ちにしてたんスから」

「どうです、いいでしょう」と誇らしげに胸を張る喜助に「和服にお似合いです」と選んだ張本人が言ってほんのり恥ずかしくなった。

 こうして話しながら訪れた先は、老舗のお蕎麦屋さんだった。都内の高層ビルが建ち並ぶ中、ちょっとした路地裏へ入ると昔ながらの店がひっそりと佇む。しかし大晦日とあってかとても繁盛しているようで、行列が外まで続いていた。さて入れるのだろうか、と心配するも束の間。喜助は、その列に構うことなく、暖簾をくぐっていく。

「こんちはっスー」

 いつもの調子で入っていくと、奥から「ああ喜助さんいらっしゃい」とこの店のご主人らしき人が現れた。ゆかが控え目に会釈すると、その人は「今年は同伴付きかい? いやぁ隅におけないねぇ」と忙しそうにしながらも笑っていた。

「いつもの席あけてるから、ゆっくりしてってよ」
「はーい、毎年すいませんねぇ。此処の蕎麦を食べないと、どーも正月を迎えられないんで」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ、お嬢ちゃんもたくさん食べてってね」
「あっはい、ありがとうございます」

 ペコリとお辞儀をしたものの、「……浦原さん、お嬢さんだって。そんな年齢でもないけど」と耳打ちすると、「やだなあ、社交辞令っスよぉ」と扇子を広げて指摘された。それにゆかは恥と共に反感を覚え膨れ気味に返した。

「わかってますー」

 やっぱりデリカシーはない時はないな、と不本意にもムッとする。我ながら大人気ない。言い換えれば商売文句のお世辞。いやでもそんなハッキリ言わなくたって良いのでは? とぷりぷりしそうになった途端、「ですがアタシはあなたに世辞なんて言わないんで、常々可愛らしいお嬢さんだなと思ってますけどね」とにこやかに言い放って席へついた。

「ふ、ふざけないでください! 公の場で、」
「おや、顔を赤らめて可愛らしいこと」
「だから……!」

 そうこう言っているうちに、お待ちどうさん、と予め注文してあった温かな年越し蕎麦が運ばれた。白い湯気が立ち、豊潤な出汁の薫りに包まれる。

「わあ美味しそう! 」
「此処のお蕎麦には先代からお世話になってるんスよ」
「そうなんですね! でも浦原さんよく怪しまれないですね、姿が変わらないのに」
「そこは得意の記換神機っスよぉ」
「えっほんとですか」
「いや、冗談っスよ」
「急に分かりづらい冗談はやめてくださいよ……。さ、冷める前にいただきましょう?」

 ゆかが先に、いただきます、と手を合わせてひと口。

「んー、美味しい!」

 喜助が何十年も通っているとあって味は申し分なく心に滲みる。喜助も、熱々の蕎麦をフーフーと息をかけながら啜り始めた。舌鼓を打つほどの美味しさに腹ぺこも重なって黙黙と食べていると、あっという間に食べ終えた。お出汁のきいた汁を飲んであったまる。出された蕎麦茶も優しい味がする。

「ゆかさんのお口に合ったようで良かった」
「合ったどころか、とても美味で頬っぺたが落ちます。浦原さんと食べられてほんと嬉しいです」
「ええ、ボクもっスよ」

 美味しいものは大好きだ。それを大好きな恋人と共有できた暁には大好きが何倍にもなる。悦びが相まって満腹感が増していく。

「はあ、至福でしたあ」

 昨日、寝る前に告げたことが現実になったようだなと思い浮かべた。同じ方向を視て喜びを分かち合う。つまりはこういう気持ちを彼は、彼の望む形で待っているんだな、と彼の論理が繋がった気がした。

「ご馳走さまっスー」「はい毎度! 良いお年を〜」と活気だつ店内に響いて、ああ大晦日だったとまた気付かされる。

 そして昔馴染みのお蕎麦屋さんを出ると、近くの雑貨屋さんや年末セールのお店を見て回った。あちらこちら、行き交う人々がお辞儀をしながら「良いお年を」と挨拶し合う光景は年末を強く感ぜられて好きだ。

 年末年始の特別感に、喜助の誕生日というさらに格別な日。──どうか彼が幸せであってほしい、とただそれだけを胸に秘める。
 通りがかった近くの神社に立ち寄り、お詣りをしてそれを願う。年が明けたら商店メンバー皆で初詣へ行くかもしれないけれど再び祈るだろう。何度でも、何遍でも。こうして生死を司る神が横に居ながらにして願えることもまた贅沢だと実感しながら。

「何を願ったんスか?」
「内緒ですよ、言ったら叶わないって言いますから」

 きっと彼は解ってる。何を願って願われるかなんて。ひとつに決まってる。それを言わせたそうにしてたけど、敢えて秘密にした。

§


 その後は都内のお祭りムードを味わったり、疲れたら和風茶屋で休憩したり。彼のしたいことがこういったありきたりなデートかはわからなかったけど、二人きりで過ごせて楽しかった。歩く路へ映る影が伸び、陽も落ち始め。そうすると瞬く間に夜の気配が近づく。

「あ、もうこんな時間。商店にはいつ頃戻りますか?」

 商店で待つ彼らを思い浮かべると、昔のようにお手伝いしなければと胸が騒つく。

「あーもうひとつ寄りたいところがあるんスけど、いいっスかね?」
「? はい、もちろんです」

 そう返してから喜助の先導する方向へついていく。一体どこに行きたいのだろうと考えながら彼と今年の総括をしては他愛もない話をしたり。カラコロと鳴り響く下駄の横を散歩していると、すっかり夜の時間へと差し掛かっていた。
「そろそろだ」と言って直面したのは、都心の高層ビルにスクランブル交差点だった。

 ──おお、都会だあ……!

 こんなに人口が密集する場所に来ることは滅多になく、人々の流れに酔わないか心配になる。ここら一帯は若者のお祭り騒ぎかと思えば、寺社を構える遠くの方では年配者の姿も。聳え立つビルの大きな電光掲示板を見上げると、年越しイベントを盛り上げる文字列が光輝いていた。

「浦原さん! これって、」

 驚きながら羽織り袖の裾を掴むと、くいっと路地裏へ引っ張られた。

「これから特等席まで行くんで、掴まってて下さいね」

 返事する間も無く、腰をぐっと抱かれる。
 瞬歩で着いた所は先ほどまで見上げていたビルの屋上だった。

「うっわあ、すごい! 人がこんなのたくさん、それに夜景もきれい、」

 背後に喜助が立ち、寒くないようにと羽織りを前まで覆って暖をとる。

「言ったでしょう、『次はカウントダウンを、アタシと二人で』って」

 それは、祝えなかったあの日。
 結局、元日が訪れ新年の挨拶に混じって誤魔化すことしかできずに蓋をしたあの夜。恋仲でもなんでもなかった彼の中では他愛も無い会話の一言だったはずなのに、──。嬉しくて嬉しくて、涙が込み上げた。あの時の悔しさが報われたような、この約束はもう何年越しになるのだろう。

「あれから随分と遅れてしまって、すみません」

 耳許でそんなことを囁かれ、ぽかんと見開く目下には活気溢れた民衆たちが。あの時はテレビでこの様子を眺め、それを観ながら大人気もなく心躍って、喜助にその心を見透かされていた。

「……忘れてました?」
「えっ全然忘れてなんか、憶えてましたよすごく!」
「おやぁ、怪しいっスねぇ」
「ほんとですって!」

 へらへらと笑う喜助に勘違いされないように振り向きながら言い募るも、ちゃんと伝わったか疑念が残る。本当の本当にしっかり憶えているのに。ただそんな些細な意地より、あの喜助が自分みたいな人間のことを当然のように考えてくれていたことが何よりも嬉しかった。
 しかもこの特別な日に、──と思い直すと同時に大事な物を渡していなかった、と鞄をガサゴソと漁る。

「あっ浦原さん、ちょっと両手、いいですか」

 ゆかはちょうど後ろから回されていた喜助の手と手をとって、今日の目的のものを彼の武骨な手のひらへとつけてあげた。

「私からお誕生日プレゼントです」
「お、これは。あたたかいっスねぇ、革の手袋」
「はい、いつも素手ですし。こげ茶なので仕込み杖と合うかなって思って」
「……ありがとうございます。馴染みやすく使い勝手が良さそうで」
「でも鬼道とか紅姫ちゃんで闘う時は外してくださいね?」
「そんじゃその時は敵サンに不意打ちをさせず待ってもらわないとっスねぇ」
「はは、そうですね」

 いつでも温かい喜助の手のひら。日常で特に必要ないのかもしれないけれど、商売のふとした外出時にでもと思って革を選んでみた。そういったセンスには正直自信がないし不安が残る。それでも和装に革なら、と悩んで優柔不断なりに決めた。少しでも喜んでくれたら嬉しいと。

 暫くすると、「一分前です!」と拡声器のアナウンスが地上から響き始める。
 次第に声が重なって大きくなるカウントダウン。心躍る瞬間を、この特等席から俯瞰する光景は圧巻だった。

「あっ浦原さん、始まりますよ」思わず前のめりに人々を覗くと、
「はいはい、あんまり前へ出ると落っこちますよ」と呆れ気味に、けれどがっちり腹部まで腕を回して。革手袋越しの甲をぎゅっと握り返す。そうして二人の声が重なりながら秒数が減っていき。

「さん、にー、いち、──」

 パーン! というお祝いの音にクラッカーの破裂音があちこちで響く。遠く沿岸では色鮮やかな花火が上がり、どこからか鐘が鳴る。どの方角でも、たくさんの祝福が見渡せた。
 お祝いのお祭りムードは大晦日から続いて元日へと移り変わっていく。ネオンの消えない街に反響する歓声。年に一回の煌びやかな景色を大切な人と共に迎えられて、心が満たされていった。

「浦原さん! 明けました! おめでとうございます!」
「はい、明けましておめでとうございます」

 えへへ、と零れた笑みへ応えるようにあなたの目尻が優しく垂れ下がる。

「一緒にカウントダウンできて嬉しかったです。今年もよろしくお願いしますね」
「ええ、あたしもっス。どうぞよろしくお願いします、今年も来年も……その先も、」
「……はい! こ、こちらこそ……!」

 おもむろに振り返ったゆかは、わあわあと騒ぎ立つ人々の声を後ろに喜助と向き合った。猫背を丸めてもまだずっと高い彼。言葉でお願いするのはなんだか照れるから、首回りに巻かれたマフラーをぐいっと強引に引っ張って頭を下げさせる。

「おおっと、なんスかいきな、──」

 頬と頬を両手で挟み、口づけた。
 お外で自分からするのが初めてで、ただ恥ずかしくて喜助の顔が見れなくて。結局、目を瞑ることしか出来ず、彼のかさついた唇の感触と次第に高鳴る鼓動しか耳に入らない。

 ──いま、こうしたかった。

 心任せに自分からしたのはいいものの、暫くどうしたらいいか分からなくなって口づけたままでいたら、挟んだ両手を喜助がとって主導権を奪っていく。
 いつもと違う、革手袋の感触が指を伝う。少しだけごわつく硬さが大人の男性をより強く感じさせた。

 奪い返した主導権を喜助が明示するように、触れ合うだけの唇から水音を含む深い口づけへと変化していく。舌を這わせられ息が上がる。角度を変えながら求められる慾望に「ん……は、」外にも拘らず嬌声が漏れた。

 バタバタバタ、と上空ではヘリコプターの音が鳴り響く。このお祭り騒ぎの中継なのだと、紅潮した頭でも瞬時に理解できた。けれども喜助の口づけは深くなるばかりで止まる気配がなかった。

「う、らはら、さ、」

 息を吸った隙に声を上げて「ん、まって」と意思表示を試みる。

「待ちません」
「ヘリコプターが上に、ここが映ったらどうするの、」
「見せてやればいいんです」
「だっだめですって、んっ」
「あなたが望んだんですよ」

 待たないと言った割に離れていく唇。ほんの少しだけ名残惜しそうだった。ゆかは気息を整えてから呆れ気味に見つめ返す。
 もう彼の誕生日は終わったけど、年も明けたけど。彼がこうして喜んで一瞬一瞬を過ごしてくれたらそれが嬉しくて。結局求められたら許してしまう甘い人間なのだ。

「ゆかさん、素敵な大晦日をありがとうございました」
「そんな、私は手袋くらいしかあげてませんし。むしろこんな楽しくて幸せな一日をくれて、」

 ありがとうございました、と御礼返しをすると、喜助は柔らかく笑む。

「良かった。……僕は欲張りなんでね、自分の誕生日だと言ってもどうしても好きなヒトの幸せが欲しくなる」

 自分の至福は前面に出ていたはずだけど、それでも彼はこちらの幸福度を気にかけていたようだった。浦原喜助という人物は、相手が抱く感情を無碍にせず寧ろ大切するのかもしれない。思っていたよりも熱い情愛で。

「こうして浦原さんといられて幸せです、心から」

 浦原さんは? なんて聞かなくても彼の豊かな表情が雄弁に語る。
 誕生日だとか元日だとか、名前のない日だっていつだって幸せに満ちているのに、どうして人は特別な日だからと相手の幸せを願うのだろう。彼みたいに難しい思考をしてみたところで答えはないけれど、この感情だけは明白で変わらない。

「だって私、喜助さんが大好きなんですもん」

 それはきっと、彼も、──。

「……僕もゆかさんが大好きですよ、なによりも」

 いつもと違う眠らない街でも、ほら。同じ景色を視て、同じ感情を伝え合う。
 この瞬間が堪らなく愛おしい。



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