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瞼の裏は濃霧を湛える




 アイツは俺なんかよりよっぽど目が見えてないらしい。本当にあれで周りを見る気が有るのだろうか。

 イヴェールは苛立ちを胸中に抑え込みながら街道をゆっくりと歩いていた。とりあえず、あの宿から離れたいという一心で足を動かしていた。何だか馬鹿馬鹿しくなって深い溜息をついたが、実際は勢いだけで宿を後にしてしまって少々後悔している。あれだけ慢心に担架を切ったはいいが、一日などで慣れる筈がない感覚では建物の壁伝いに歩きながら行き交う人々の気配を避けるだけで精一杯だ。本当は宿の部屋を出るのも容易ではなかった。心の奥底で見栄を張ってしまった、と言うより、これ以上ローランサンに俺が盲目であることを過敏に感じ取って欲しくなかったのだ。

 俺が青筋を立てた原因は確かにアイツの所為でもあるが、本当は恐らく自分の心の弱さからだ。確定はできないが今はそうしか言いようがない。実は俺自身も、何故あの時ローランサンの存在を拒むように当たり散らしたのか分からない。唯、無性に腹が立った。それだけだ。

 にしても、本当に視界が断たれるというのは辛い。理解した筈だった。視界が徐々に掠れ、何れ視力を失うと気付いたあの瞬間から苦しみを受ける覚悟はできていた。それでも、実際に外を歩いてみることがこれ程まで大変だとは思ってもみなかった。見知らぬ人間の話し声。歩く音。目の前に存在していないものから発せられる奇妙なそれらが、耳に纏わり付いて仕方がない。

 ドンッ

「気ィ付けろ、兄ちゃん!」
「……ああ、済まない」

 そして気を抜けば、これだ。人通りのさほど多くない街だったことは記憶にあるが、全くいない訳ではないのだ。今の状態なら肩くらいぶつかっても当然かもしれない。ああ、もう歩きたくなんてない。……寧ろ何で歩いてんだ? ああそうだ、宿から離れたい。一歩でも距離を置きたいのだ。結局、溜息を零しながら何処に続くかも分からない道をゆっくりとまた歩き始めた。

 ふと、今肩のぶつかった人間のことを思惟してみる。視力を失う以前から見知っていたのなら頭で想像できるのだが、生憎彼は今まで一度も会ったことのない赤の他人。想像しようもない。もし想像で彼を作り上げたとしても、実際の彼とは似ても似つかないだろう。判断材料が声のみでは、感情くらいは分かったとしても流石に人相や風貌までは分からない。しかも同様にこれから出逢う人物の全ての顔を覚えなくてはならない。勿論不可能だ。そして何より、“今更”である。今は何も目にすることができないのだから、想像でしか物を見れない。だが、見たことすらないものを脳内で具現するなんてできやしない。結局、どれも今までの映像を引き出して考えるしかないのだ。景色、建物、そして人間も。



 今、想像で、創った人間。

 恣意的に、脳内だけで組み立てられた虚構。

 そう。以前から知る人間なら、そんな虚構を創らなくてもいい筈――



 宿での出来事が、甦る。



 ――ああ、そうだ。思い出した。あの時、ローランサンがローランサンでなくなってしまったような奇妙な感覚に陥ったのだ。視界で確認できない今は彼の存在を認めるのに声ぐらいしか当てにできなかった。だが彼の態度は以前と違ってぶっきらぼうではなく、俺を何か壊れ物を扱うような口調で……と言ったら言葉になっていないが、まるでそのような感じだったのだ。

 あの時の情景が、閉ざされた瞼の裏にぼんやりと浮かぶ。宿の中で、不意に意識が飛んだ、あの一瞬。



 誰だ? 今俺の目の前にいるのは。ローランサン? いや、いつものお前はもっとがさつで考え無しで単純で……












 ――キモチ、ワルイ



 不意に襲った恐怖。絶望。不安。そして嘔吐感に身を竦める。だが、戦慄く惨めな己の姿すらもう視界には入らない。何が怖くて、恐ろしくて、苦しいのか分からない。嫌だ、失いたくない、嫌だ、嫌だ!!

 声にならない割れた絶叫が、心から溢れ出した。それは体内を廻る血液のように細部にまで行き渡り、骨を軋ませ、震えとなり木霊する。

 嗚呼、落ち着け。落ち着くんだ。そう何度も言い聞かせながら溜息に震えを全て溶かし込み、忘れ去ろうといつも通りに言葉を紡いだ。それで、押さえ込めたと思ったのに。それでも気にかけようとする目の前の相方に苛立ち、遂に我を忘れた自分は思うがままに当たり散らした。知らない世界が俺を取り囲むなら、何も要らない。一人のほうが楽だ。干渉したくない、されたくない。何もなくても生きていける。そして、つい口から出ていたあの言葉。

『一人で生きていけない訳じゃねぇ!!』

 ああ、どれだけ見栄を張れば気が済むのだろう。恐怖に押し殺されそうなくせに。絶望に支配されそうなくせに。自分は一片の光をも突き放し、自ら暗い闇に沈み込んだのだ。視界的な闇ではなく、それを遥かに凌駕する精神的な闇に。馬鹿だ。本当に、馬鹿としか言いようがない。こんな些細なことで狼狽える自分が、浅はかな思考しか生み出せない自分が、酷く情けない。



 俺が世界を見れなくなったところで周りは何にも変わらないと思っていた。ローランサンとも、――やはり多少の不便はあるだろうが――感情的な面では今までと同じように過ごせると思っていたのだ。だが、全部、所詮は唯の夢だった。世界は、変わってしまった。それは今の俺にとって失ってしまったも同然で。ローランサンは俺の知ってた、今まで見ていた姿とはぶれてしまっていた。思い出せない、彼の姿を。変わってしまった態度から見出だす彼の姿はどこか歪で曖昧で。それが何よりも辛かった。景色が見えない、足元が見えない、生きるのに不自由だ。そんなものより、……そんな些細な事なんかより、一番堪え難かったのは彼の姿を映せないことだった。記憶の中のローランサンは色褪せないまま、今でも残っているというのに。

 でも今の彼は?

 そう、能吏に大きな谷間のように入っていた亀裂――その錯誤は忘れもしない姿を消し去ろうとしていた。白髪に、空のように澄み渡る碧の瞳。餓鬼みたいな表情をする癖に、仕事の時は酷く大人びていて。おまけに馬鹿みたいに感情を露にする、そんな奴だった。だが、こうやって頭に浮かぶ姿と現在の伝わる優しさが平行で一向に交わらないのだ。電線が電柱を介さなければ電気を伝えられないのと同様で、一致しない姿と感覚は本来のローランサンという人物の存在そのものを歪ませてしまう。形而上の世界の枠に自身を捩込むことは不可能だ。余りに抽象的すぎる今の彼の存在は脳内のみで描き出すことはできなかった。元から虚構ではないものを虚構で創り上げることなどやはり不可能だった。……そんな架空の存在と化してしまった俺の唯一の光。壊れてしまった俺の世界ではなく、彼自信は別の世界で今まで通り生きていくのだろう。

「……あ、」

 殆ど勝手に動いていたような足が、思考と共に今更ながらはたと止まった。そう、つまりは何の目的もなく歩いていた訳で。しかも、今の俺は視界が閉ざされていて。

「此処、……何処だ?」

 純粋な恐怖感。一体何をしているのだろうか、俺は。馬鹿じゃないか、幾らなんでも離れたいからと言って見えないままに歩き回ろうとするなんてどこかいかれている。悵然たる思いが身を取り巻くよう支配しているのは分かる。だがそれの所為で理性を失い、冷静さをも欠いていたと考えるのは余りにも自分らしくない。もう歩きたくないと思ったあの瞬間に止まっていればよかったと後悔した、その時、

「――Bon soir」

 聞き覚えのある男の声が、風と共に耳を掠めた。






 To be continued…







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