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盲目の二人



 無情な時が流れても、それはとある一点のみ。世界は何事もなかったかのように一点を素通りして朝を告げる。

 あれから俺は後悔の念に囚われたままだった。自分の気持ちばかりを押し付けるように慟哭した昨日の情景が何度も甦ってろくに眠れやしなかった。気を遣ってやれない自分、無理に笑わせてしまった自分。己の何もかもが情けなくなって、酷く悔やんだ。恨んだ。そんな自嘲ばかりが身を切り裂き、縛り上げ、絶望をありありと見せ付ける。

 だが俺は何の為に今まで彼と過ごしてきたのか漸く判った気がした。きっと、今彼を支えてやれるのは自分しかいないのだと無駄な責任感をこじつけのように胸中に押し付けた。

「イヴェール、前危ないぞ」
「分かってる」

 珍しく少し早めに起きた――と言っても幾分正午に近いが――イヴェールは自分の状況に慣れる為か、ベッドから下りて一人でごそごそと動き回っていた。その気配で俺もいつの間にか目が覚め、体を起こして彼の様子を見ていたところだ。

「あ、そこテーブルあるから角ぶつからないようにな。怪我したら大変だから」
「だから、分かってる!」

 やはり何となく、動作が危なっかしくて見ていられない。怒声じみた言葉が返ってきても、今の俺には懸念を繰り返すことしか考えられなかった。遂にはベッドから下りて、何とも覚束ない仕種の彼の下へ近付いていった。

「手、引いてやろうか?」

 ――途端に、彼の様子がおかしくなった。どうやら何か違うものでも見えているかのように遠くを見て固まっている。俺の存在を通り越していく光のない目をゆっくりと数回瞬かせた後、彼ははっとこちらの世界に戻ったように肩を竦ませた。そしてそのまま蹲るように背を丸め、何故か口を手で覆っていた。俯く彼の表情は、分からない。

「……イヴェール、大丈夫か?」
「…………あの、なぁ……」

 今のは何だったのか分からないが、先程まで俺が部屋の中を移動しようとする彼を必死に心配してやってたことは確かだ。だが、当の本人は息を整えるような深い溜息を零していた。

「……俺は病人じゃねーっつーの」
「でも、病人となんら変わんねぇだろ」
「なんかお前が優しいの気持ち悪いんだよ。寒気がする」
「ひっでぇ!」

 冷たく一蹴されるのは慣れていたが、少し、ほんの少しだけだが今日のそれは小さな棘が在るような気がした。言い方こそ何時も通りの蔑み具合だが、何かが違うようなそんな根拠もない微妙な感覚。説明しろと言われると非常に億劫なので、唯の瑣事だなと気にするのを止めてしまったが。彼は呆れたようにまた小さく息をつくと、再び口を開いた。

「……大体、これのお陰で別の感覚が良くなってんだよ。聴覚とか、触覚とか」

 人間には失くしたものを補おうとする機能があるらしく、彼も特に例外ではないらしい。見えなくなった目の代わりに耳や鼻、皮膚等の感受性が向上し、例えば聴覚の場合自分が歩く音が跳ね返ってくるときは目の前に障害物があることが分かる。そしてその音の返ってくる速度で障害物との距離を測ることもできる。そんな常人離れした感覚はその一つを失ったからこそ得られる代償のようなものだ。俺は失くした訳ではないからその感覚を到底理解できそうもないが、盲目の状態で一人で生きていくのは不可能だという俺の浅はかな考えを意図も簡単に捨てさせるには余りに簡単な理論だった。だが、全て理論で説明付けられたなら人間も苦労はしない。そこには人であるが故に存在する絶対的な感情というものがあるのだ。幾ら理論立てて生きていけると示したところで、実際今まで自分が見えていたものが不意に見えなくなるという恐怖には中々勝てないものだろう。そんな状況でたった一人で生きていける人間なんて、ほんの一握りだ。だから、俺も彼が心配なのだ。そんな一握りに彼も含まれているとはどうしても思えないから。

「まだ分かったばっかだけど意外と大丈夫なんだよ。もう気にするな」
「……でも……あー、ほら! まだ慣れてねぇだろ? だからさ……!」
「もう、欝陶しいから」

 そんな彼の一言は容赦なく俺の心を一突きにした。今聞こえたのは、彼の声? ――この部屋には俺とイヴェールしかいないのだからそんな疑問は是と返されるのが当たり前だ。だが、不可思議な感情を抱く程彼の声音は冷たく、次いで感じたことのない悪寒を呼び寄せた。まるで仲間でもなんでもない他人のような、そんな距離間を感じる言葉。今眼前にいる彼との実際の距離はたった二歩程度なのに、感覚ではそれが深い谷か何かを挟んでいるように取れた。決して埋められない、深い深い溝の存在を突如見せ付けられたような。動揺も苛立ちも、今更隠せそうになかった。

「な、んだよ……人が折角心配してやってんのに……!」
「余計なお世話なんだよ! 別に一人で生きていけない訳じゃねぇ!!」

 イヴェールの怒声は、少し涙声だったような気もした。でもこの時ばかりは俺も頑迷で自己の主張が曲げられず、それを真っ向から否定してきた彼にただならぬ憤りを感じた。思ってもいない、今の相手にとって残酷以外の何物でもない言葉ばかりが、とめどなく溢れる水のように口から放たれる。

「余計ってなんだよ! 俺がいなきゃ外にも出れねぇだろうが!!」
「だからさっき言っただろっ!? 目なんてものの一つや二つ見えなくても他の感覚で補えんだよ!!」
「だったら出てけよ!! 一人でも大丈夫なんだろ!?」
「ああ大丈夫だよお前なんかいなくても何の苦もないだろうからな!」
「俺も清々するよ、余計な奴で悪かったな!!」

 相手の感情を高ぶらせるだけの水掛け論は互いに唯の八つ当たりにも見えたが、そんなものはもうどうでもよかった。人の優しさを無下にするわ、いきなりキレるわ、挙句の果てに本気で出ていくわでイヴェールという人間そのものが理解できなかった。それ以前にしたくもなかった。

 彼の言った通り、他の感覚が補ってくれてることで宿の部屋から出ていくのも特に苦労していなかったように見えた。――いや、正直そこまで委細見てる余裕はなかったのだが。――なんだよ、やっぱり俺なんていなくても充分この世界で生きていけるじゃねーか。昨日の言葉は単なる出任せかなんかだろどうせ。何が『俺が世界を失う時は、きっと、お前を失った時だから』だ。ばっかみてぇ。そんなことをひしひしと感じさせられた。何時もと変わりないような動作で出ていった彼の背中は、ずっと俺の瞳の奥に焼き付いたままだった。





 To be continued…







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