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小規模なしあわせ






 そうしてイヴェールの言っていた場所に向かえば、そこには案の定その犬がいた。もう、死んでいたけれども。

 イヴェールにどんな言い訳をしようかと思案したが、そんなことをしたところで何の益体も無い。ふと母犬の亡骸に近付くと、そこには数匹の新たな命が共に失われていた。だが、一匹だけ僅かながらに浅い呼吸を繰り返している命を見つけ、衝動のままにその子犬を抱き上げる。恐らく、この子犬も死んでしまうだろう。だが、この命を見せれば、イヴェールも母犬や兄弟は助からなかったことを理解してくれるだろうと信じて、夢中で駆け出した。

 やはり、イヴェールは俺に何も尋ねることはなく、その子犬を抱きしめ俯いた。生の温もりを、その灯を確かめるように。

 イヴェールは何日もその子犬の世話をした。ミルクを与え、必死に温めてやっているうちに、子犬の息が安定していった。弱り切っていた身体も徐々に温もりを取り戻し始め、もしかして生きてくれるのではないかと考えるようになった。せめて、この命だけでも助かって欲しい。いつの間にかそう祈っていた。

 後に、子犬は声を出して鳴いた。一層二人は子犬の世話に必死になった。そして、薄ぼんやりと開いた黒い瞳に、二人の殺し屋が映る。

「ほら、俺がママンで、こっちがパパンだ」
「誰がパパンだ誰が」

 イヴェールが意気揚々と馬鹿なことを言うものだから、喜びも若干薄れてしまった。

「てゆか、お前ママンでいいのかよ」
「基本的に子供はママンを好くものだからな」
「あっそ……」

 もうどっちでもいい、馬鹿らしい。そう思いながらも、子犬を撫で回す姿が幾分楽しそうに見えたからそれでいいと思えた。すると、イヴェールはにぃと口角を上げて子犬の顔を俺に近付けてきた。

「ほらっ、コイツなら噛んでもいいぞー」
「オイ!」

 子犬は既にイヴェールの僕みたいなものなのか、あんぐりと大口を開けて甘噛みしようとしてくる。間一髪で子犬ごとイヴェールを離れさせると、そんな他愛もない戯れが面白いのか、笑い声が聞こえてきた。

「噛まれても痛くないと思うけど?」
「誰が好き好んで噛まれないといけないんだよ……」



 子犬に名前は付けなかった。だが俺達がその子犬をチビとかイヌとか呼んでいるうちに、コイツはチビというのが自分の名前だと理解したらしい。チビは、黒くて鼻先だけ白い雌犬であった。

 命を奪う筈の殺し屋が、一つの命が生きながらえることを望むなんて、甚だ奇妙なことだった。



◇◆◇



 あれから二年の歳月が過ぎた。月日が流れるのはやはり早いもので、気付けばチビも立派な雌犬になって部屋中を煩く駆け回っていた。朝ともなれば寝台に登ってきて、顔中を舐め回される事も少なくない。

「可愛い娘の頬ずりでお目覚めなんて幸せ者だな」
「こんなにべっとべとなのにか……?」

 身支度をしているイヴェールがそんな俺を見て含み笑いを浮かべていた。もう小さくもないチビを上から退かせて、とりあえずイヴェールが渡してくれたタオルで顔を拭く。

「今日は?」
「劇団の方へ行くつもりだ。まだ講演あるからな。お前は?」
「うーん……そーいや食料きらしてたから、買ってくるわ。チビと一緒に」
「……ずるい」

 いや、何が。そう言いたくなったが、チビと暮らし始めてから余計に犬好きが開花したらしいコイツは、俺ばかりがチビと一緒にいると妬くらしい。

「はぁ……分かった分かった。終わったら二人で見に行ってやるから、ちゃんと練習しとけよ」
「生憎、当日に練習しないと間に合わないような芝居はしてないんで」
「……そっか」

 自信あり気に微笑を浮かべるイヴェールを見て、こちらも薄い笑みが零れた。朝食のクロワッサンを少しずつ頬張りながら、テーブルでのんびりと談笑。

「お前、またヒロイン?」
「最近は俺が殆どだな。認められてるんだよ、皆に」
「はいはい」

 自慢げに言うものだから認めてやるのが釈で安っぽい返事をした。だが、確かにイヴェール以外の誰かがヒロインをやると聞くとどうにも物足りなく感じてしまうこともまた事実だ。

「自分から聞いておいて何でそんなに興味なさ気なんだよ、死ね、馬鹿」
「ああもう悪かったって。お前が死ねとか言うと冗談に聞こえないから止めてくれ」

 睨み付けてくる緋と蒼はいつまで経っても威圧感がある。こればかりは慣れる慣れないの問題ではない。イヴェールは残り一つのクロワッサンを咀嚼し終わるとテーブルに頭を預ける。窓際に止まっていた小鳥が、さも自由そうに羽搏いていった。

「……早く、こっち一本に、したいんだけどな……」

 腕で表情は見えなかったが、恐らくそれは真摯なものだろう。イヴェールは以前に比べれば殺しの仕事の数は減ったが、それでもまだ完全に抜けきれてはいない。望んでも、中々すぐにはパトロンから解放してもらえないからだ。

「助けてやる」
「え?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で見上げられた。イヴェールがそうなって当たり前なことを、俺は簡単に口にしていたみたいだ。

「約束だ。ちゃんと、お前が殺しを止められるように」

 可笑しいことを言っているのは重々承知している。振り出しに戻って考えてみれば、殺す為に――死の妖精を手に入れる為に行動を共にしていた奴が、今更になって『助ける』なんて明らかに矛盾したことを言っているだろう。でも、それは振り出しに戻れたらと仮定した話であって、実際には不可能なことが互いに分かっている。結局は相手を殺すとか殺さないとか、無論殺せないということも、もはや眼中になかったのかもしれない。

「お前が足洗うまで、一緒にいてやる。そうしたら、俺はまた死の妖精を探しに行く」
「……うん」

 イヴェールはこくりと頷いてそのまま俯く。そして、その空気を見事に壊してくれる犬が椅子に座っていた俺を勢いよく押し倒した。派手に床に転がった俺の上で踏ん反り返るチビに、起床時宜しくまた舐め回される。

「わっ、コラ、チビ!」
「ぷっ……あはははっ」
「笑ってないで助けやがれイヴェール!!」

 花のように笑うイヴェールは本当に舞台のヒロインのようだった。チビと暮らし始めてから二人共よく笑うようになった気がする。

 こんなに幸せで、いいのだろうか。

 そう疑問に思う程、穏やかな時が過ぎていった。





end.







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