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WARMTH


※血表現注意













 意識の表面で、声がした。



 此処は、何処だ? 俺は、何をしている? ……ああ、そうだ。刺されたんだった、追っ手の刃物に。失敗、やらかしたんだ。

 瞼の裏には深い暗黒。浮上した意識は神経を高ぶらせ、痛みを呼び起こす。腹部からドクドクと流れ出る朱い液体は己の生を司るもの。濁った世界の酸素を肺に取り入れようとすれば、吐き出す二酸化炭素にその液体の味。錆びた、鉄を舐めるような、不快感。固く冷たい砂の味と混ざり、もう何が何だか分からない。背中には雨に壊された土、温かく広がる朱。

 何故、意識がある?

 誰かが、呼んだから。それは深い沼の底から引き上げられた。瀕死の俺は生にしがみつく力も、意志も、権利も無いのだと。そうばかり考えていたから、今意識がこの世界に存在することが理解できない。

 瞼が、上がる。

 雨に、打たれる。

 銀の光が、差した。

 痛い、痛い痛い。視界が眩しい。双眸が悲鳴を上げる。見たくない、戻りたくない、その世界に。きつく、きつく目を暝る。

 逃げるのか?

 違う、違う違う! 朱い世界と皮肉な声が雨のように脳内に降り注ぐ。だが、染み渡る言葉は意識を覚醒に程近いものへと変容させていく。まるで引き寄せられるように、帰って来いと嘆願されるように。

 その声は酷く強く、そして弱かった。俺を朱の世界に再び導くには又とない光であったが、共にそこには哀しみの色が浮き出ていた。

『嫌だ……!』

 不意に能吏に響いた言葉は、己の声かそれとも降り注ぐ誰かの声――果たしてどちらのものだろうか。その時はそんな疑問しか浮かばなかった。しかし、直ぐにその答えは見つかる。



 いやだ

 しにたくない



 いやだ

 しぬな



 二つの声が、重なった。自分の願い、そして彼の願い。……その瞬間、ふわりと漂う紫陽花と菫の香が鼻についた。青と紫の光が照らす靄の中に、自分以外の人影が一つ。見覚えがある、なんて言葉では言い表せない程知りすぎた人の姿。

(…イヴェ、……ル?)

 銀の髪に、緋と蒼の瞳。いつも目にしていた人物がいつもとは違う風貌で佇んでいる。深い蒼のコート、首元を飾るリボンには赤い宝石。頬には、奇怪な二つの紋様。それでも、違うと分かっていても、距離を縮めようとする足。一歩、また一歩と彼に近付いていく。すると、柔らかな声が耳を掠めた。


 ――まだ、君が来るには早過ぎる。僕と君が逢う時は、――


 紫陽花の香が支配する。靄が色濃くなる。人影が、薄れていく。

(待ってくれ! イヴェールが、そこにいるんだ!!)

 そんな心の叫びも虚しく、視界に捉えるものは消失していく。違うということは分かっている、あれはイヴェールだが自分の知る彼ではない。だとしても、“イヴェール”という存在が消えることに酷く戦慄を覚えるのだ。また、か細い声が鼓膜に届いたが、後は吸い込まれるよう靄に溶けていく。


 ――君 が、   ――


 青と紫の狭間に蜃気楼のように浮かび上がるイヴェールは、儚い笑顔で消えていった。














「ローランサン……!」

 は、と聴覚が働きだした。ああ、さっきのは夢か。ならば、今聞こえた声の主と薄く開いた双眸に映る姿は……、

「……イヴェー、ル?」

 分かっていながらもそう問わずにはいられなかった。雨は絶えず降り続け、髪を頬を、全身を濡らした。それによって体躯が冷えきることより、今は微かながらも鮮明に捉えられる相棒の姿が愛おしくて仕方ない。腹部から流れるぬるま湯のような朱と混ざる水溜まりは一体何度だろうか。泡立つ神経はそんなものを感じとろうとはしない。唯々、眼前の姿を焼き付けたい、その願いだけが膨らんで瞼が段々持ち上がる。

 漸くはっきり映った――と言っても、血を流し過ぎて視界は普段より掠れているが――イヴェールの顔は、感情が交錯したような、何とも言い難い表情を浮かべていた。歓喜とも悲哀とも、懸念ともとれる余りにも稀なイヴェールの崩れた表情。

「――っ」

 ふと、床に横たえたままの身体が腕に包まれる。縋り付くように、イヴェールが俺の身体を起こしてきつく抱き締めた。苦痛も恐怖も、何もかもが背中から離れた水溜まりに溶け出していったような感覚に陥った。思い出した痛みも愉悦に包まれて何が何だか理解できない。雨で冷えたイヴェールの衣服に血が滲むが、それを臆することなく彼は布を手早く傷口に巻き付けた。

 生きて、るんだな。

 死に逃げ出そうとした自分が酷く馬鹿らしく感じた。彼はここまで必死に自分を助けようとしていたのに、当事者が生きることを望まなければ何の意味もないことに今更気付かされる。でも今は、生きることが愛しい。そう思ってはならないと分かっていても、この人と生きることがこんなにも嬉しいと感じてしまった。

「……俺より先に、……死ぬな……っ」

 掠れた声で呟かれた。ぞわり、耳から足先まで鳥肌が立つ。剥き出しの感情が染み渡り、雨か涙か分からないものが頬を伝った。それを相手の肩に押し付けるようにして、できる限りの力を振り絞り背中に腕を回す。温もりに、身を委ねた。






 世界の中で、声がした。

 ローランサン、と。






end.







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