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産声を上げる世界






 そこは冷たく無情な世界だった。誰も自分に視線を送らない、見向きもしない、気が付かない。俺はそいつらを呼び止められない、名を呼べない、それ以前に興味もない。日々変わっていくのは街路樹の葉の色、街行く人々の服装、見上げる狭い空模様……――そんなくだらないものばかり。路地に座り込んだまま、唯明日を生きる為だけに盗みをする陰欝な日々を送った。

 空気の塊か何かを被ったような俺は瞳の色まで濁っていく感覚がした。自分の目の色なんてものさして気にしたことはなかったが、視界が日毎に虚ろで霞みがかったものになっていることは容易く感じられた。それが何色かなんて知らないし、分かったところで何の価値も魅力もないだろうから知ることに意味なんて存在しない。そう、俺は考えたこともなかったのだ。他人の瞳に映る自分の瞳がどんな色を灯しているかなんて。

 だから、ふいに聞こえた声に咄嗟に反応することができなかった。

「――お前の目、綺麗だな!」

 一に耳を疑った。まず呼び掛けられる声なんてものに反応する機能が衰えていた聴覚は、今正常に働いているのだろうか。二に目を疑った。薄汚れた世界ばかりを映してきたものが今更こんなに綺麗な人間を本当に映しているのだろうか。

「…………」
「…無視? 生きてる?」

 全身の毛がよだつような、例えるとしたらそんな感じ。延ばされた手が俺の頬に触れていた。何の躊躇いもなく、俺の反応を確認するようにぺちぺちと叩いてくる。不思議と、嫌な気はしなかった。それは恐らく目の前に屈んでいるのが自身となんら大差ない年頃の少年だったから。そして、初めてまともに自分の存在に気付いてくれた人間だったから。

「……うわっ、何泣いてんだよ!」

 枯れた筈の涙腺が疼き始めたと思えば、一滴、ぽろりと涙が頬を流れた。それは勿論、頬に触れていた人間の手を濡らした。何だか穢してしまった気がして、今更ながらその手を振り払うように顔を背けた。

 眼前の少年は、俺にとって光に見えた。ふわりと跳ねる銀の髪と、賞賛されたときにも思ったが俺なんかより遥かに綺麗なオッドアイ。どれもこれも別世界のもののようで、此処が現実か幻想か判らなくなった。どこか冷徹そうな表情があどけなく笑う姿は俺には眩しすぎた。背けていた視線を同じ目線の少年に恥じらいながら合わせると、また綺麗に孤を描く緋と蒼が目に映った。

「お前、名前は?」
「な、まえ……」

 漸く声らしい声が漏れた。名前、そんなもの尋ねられるとは思わなくて、はっと気付いたように俯いて思惟してみる。

「……ないのか?」
「違う、…………ローラン、サン」

 なんだか言わなければならない気がして、いつの間にか口にしてしまっていた自分の名前。必要のないもの――名前なんてものの捉え方は俺にとってその程度だった。在ったところで呼ぶ人なんていないから忘れかけていた。そんな“名前”を呟く唇は俄かに震えていた。

「ローランサン、だ」

 顔を上げてもう一度、今度は少年の瞳をしっかり見つめて。自分は自分なのだと存在証明ができる唯一のものを言葉にする喜悦と戦慄。それらに取り巻かれながらも、妙な緊張に小さく喉を鳴らして口を引き結んだ。だが目の前の少年の反応は意外と呆気なく、そう、と呟くと服に付いた砂を払って立ち上がった。座り込んだままの俺は自然と少年を見上げる形になる。そんな俺に、また奇抜な言葉が紡がれる。

「…一緒に来ないか? あ、俺も一人だけど」

 黄昏のオレンジが立ち上がった少年を照らし、逆光が目に痛い。投げ掛けられた言葉が理解できず、表情を見ようとしたが眩しすぎて片目を眇めてしまった。嗚呼、この人間は正気なのだろうかと本気で訝しんでしまう。もう何が何だか分からない。理解の範疇を越えた少年の言葉はまるで魔法のようで、一言一言が俺の身体を締め付けた。身に覚えの無い感覚、感じたことのない胸の高鳴り。この少年の全てが不思議で仕方ない。

「……なんで、だよ…」
「嫌ならいいけど? ローランサン」

 それでも、呼ばれた名前がこの世のものでないような響きを持っていた。この延ばされた手は俺なんかが掴んでいいものだろうか。そんな一抹の不安が過ぎるが、コイツと一緒なら少しは世界が面白くなりそうだ。そんな期待の汗が滲む手を決意するようにぎゅっと握りしめた。

 差し出されたこの手を掴んだその瞬間から、俺の世界は回り始めた。




end.







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