鏡に溶けて ※サンイヴェサン注意! 前髪を掻き上げられる。手が額を柔らかく撫ぜる。まるで宝物を愛でるかのような手つきにイヴェールはらしくもなく畏縮してしまった。ふと、相手の唇が小さく音を立ててそこに触れる。次いで同じ様に瞼、鼻先、そして右頬。どれも指先でなぞるように触れてから後に唇を寄せる。余りに穏やかで、優しい時が過ぎる。まるで羊水の中で微睡むかの如き安堵。そんな忘却の彼方であるものに包まれながらも、左胸の臓がとくり、骨を軋ませて血液を廻らす。優しい生温さと強張る体の緊張がどうにも相入れない。輪郭を確かめるように慰撫する掌が頬を滑り落ち、遂には頤に指がかけられる。下唇に、彼の親指。すぅ、と流れるよう触れられ、先程までの動作を反芻しては僅かな期待に身が打ち震える。瞼を落とす。睫毛が揺れる。柔らかな熱は、……左頬に。 「……まどろっこしい」 イヴェールはローランサンの肩をついと押し返し、柳眉を寄せて睨め付けた。怜悧な表情が崩れるのがさぞ楽しいのか、ローランサンは文句を零すイヴェールとは対照的に戯けるような口調で呟く。 「だってさぁ、……いいや、何でもない」 碧い瞳が撓む。口元が小さく弧を描く。それで策士か何かのつもりであろうか。ローランサンが含ませた笑みを嚥下させ、また顔の筋肉が平生通り弛緩しなくなったのを認めてからイヴェールは口を切った。じとりと蔑むような物言いで。 「……お前らしくない」 「じゃあ俺らしいって、何」 微笑すら零さない滔々とした棒読み台詞。その中でも語尾は僅かながらに疑問符の面影が残っていた。如何なる曖昧なクエスチョンに対しても、アンサーは絶対的に要される。訝しいとばかりの態度を見せていたイヴェールは一応答えを要請されたので、その法則に従い脳味噌を働かせる。ものの零コンマ五秒程で辿り着いた単純明快な答え。それを喉に留まらせたままローランサンの胸倉を掴み、殆ど勢いのみで唇を押し付けた。 「んっ、……ぅ」 留まらせた答えを流し込むように無理矢理舌を差し込めば、眉を顰めて表情を崩すローランサンが視界一杯に広がる。舌を搦め捕り唾液を吸い込む音を立て、徐々にその視界が淡い赤に染まるのを確認する。苦々しい表情から、いつの間にか眉の下がった快に蕩揺うものへ。固く閉ざした筈の瞼から所在無げな碧い光がうっすら覗くと互いの焦点がぶつかり合った。そしてすぐに、唇を解放した。少し潤んだ双眸が熱っぽく、また瞼に隠されてしまうのが惜しかったから。 「……こういうの」 「…………お前らしくねぇの」 くすり、蠱惑的に笑ってみせると一瞬何の話であったかすら忘れていたようで、ローランサンは僅かな沈黙の後悪態をついた。バツの悪そうな表情は答えに納得しきれていないのか、はたまた答えが明確すぎて受け入れ難いだけなのか。恐らく後者だろうが、こんなやり取りもたまには悪くないと思う。自分らしくないのは、相手も相手らしくないから、ということで結論にしたい。イヴェールは微笑を孕ませたまま、未だにふて腐れている相手に尋ねてみる。 「俺らしくないと、嫌?」 「……お前がイヴェールなら、それでいい」 崩された策士は、赤く染まって酷く滑稽に見えた。 end. |