小説 | ナノ

月が、狂わせる








「オイ、何処行く気だよ!」
「行けば分かるから」

 何の理由も聞かされずに部屋から引っ張り出されたイヴェールは苛立ちの篭った言葉で問い続けるが、掴まれたままの手首は一向に解放される気配はない。そんな状態のまま、ローランサンは街道を外れ草木を掻き分けて森を進んでいくものだから、何処に向かっているのかなんて皆目見当がつかない。お世辞にも道と呼べない凹凸の酷い足元や鬱蒼と生い茂った樹木が行く手を阻む。躓いたりしないように必死で、前方なんて見ていられない。幸い――と言うのも何か違う気がするが――先を行くローランサンがいるので顔に草木がぶつかることはない。

 足元ばかり気にしていたが、ローランサンの手の力が緩んだのを見計らいなんとか振り解いた。その時には、既に歩は止まっていた。

「ほら、着いた」
「お前、お陰で手首痛い………」

 しっかり掴まれていた手首ばかりが気になっていたイヴェールはローランサンの言葉なんて流していて目の前の光景に全く気が付いていなかった。手首から視線を外して眼前を見渡せば、いつの間にか開けていた視界は思わず息が詰まるくらい幻想的な風景。悪態は、全て溜息に変わった。

「……凄い」
「な?」

 森に囲まれた小さな湖畔。澄んだ水。水面に浮かび上がる月影。夜の静寂に虫の羽音が響く眼前の風景に、軽く眩暈を覚えた。

 幻想的で美しい風景を見て感傷に浸る――なんてする暇があるくらいなら、それこそ二人とも仕事をすることばかり考えるだろう。だから、似つかわしくないと言われれば否定はできないが、それでもこうやって黙って何かを眺めることも悪くないと思ってしまう。脳も日常と少し掛け離れた事象に回路が巡っていない。唯々、五感だけが鋭くなる――それしか解らない。どこか新鮮味のある感覚に、狂ってしまいそうで。壊れてしまいそうで。

 口を開くのも億劫に感じるくらい、清々しい沈黙が漂っていた。もう少し冷たいしじまに溶け込んでいたかったが、惜しみながらも唇を動かした。

「よく、こんな場所見付けたな」
「……まぁ、散歩してたら、たまたま」

 ローランサンは近くにあるというこの湖畔をわざわざ探しに行ったなんて言えず、見え透いた嘘をついてしまった。勿論、散歩なんて嗜好、ローランサンは持ち合わせていない。だが、イヴェールは殊更気に止めもせず、一人勝手にブーツを脱ぎ捨て、ズボンの裾を膝下辺りまで折り曲げて水際に近付いていった。

「……冷たい」

 水に足が触れたイヴェールは先程までとは打って変わって別段苛立った風もなく言葉を零した。寧ろ暑さをあれほどまで厭うイヴェールのことだから、足先から伝わる冷たさが心地いいのだろう。

「水、浴びたいんだろ?」
「…あ、ああ」

 ローランサンがそう促すと、イヴェールは入り込んでいた自分の世界から帰って来たかのように喜悦と躊躇を混同させた返事をした。一度ローランサンを一瞥してから、イヴェールは水深の深い所までゆっくりと歩いていく。

 ふと、水面で揺れるイヴェールの影が止まった。

「……ローランサンは、いいのか?」

 イヴェールが前方を見据えたまま何故か畏まって尋ねてきた。恐らく、先程の新しい遊具を与えてもらって喜ぶ子供のような反応をしてしまった自分に羞恥を覚え、次いで連れて来てくれた相方のことを思い出したからだろう。

 忘れられていたと考えれば少し疎外感があって何とも言えないが、そこまで大いに喜んでくれていたのならこちらも甲斐がある。近くの木に凭れかけていたローランサンもブーツを脱いで水際へと歩いていく。

「うっわ、冷てぇ。お前よく入れるな」
「直ぐ慣れるよ」

 そう言ってイヴェールは月光の映り込む髪を纏める紐を解いた。するり、銀糸ような髪が肩から流れ落ちると、そのまま少し屈んでばしゃりと水面に顔を沈めてしまう。一見優雅な外見からは決して想像できない大胆な行動だった。勿論、盗賊の自分達に優雅さなんてものを求めたところで詮ないが、イヴェールを盗賊だと知らない人間から見ればそれは余りにも考え難い粗雑な行動。

 ――そこからの別人のような妖艶さに、身の毛がよだった。

 イヴェールが水から顔を上げて髪を振りほどくと、薄明かりをはらんだ水滴が宙を舞う。それでも絶えず髪から滴り落ちる水で服が濡れるのも構わず、夜風を感じながら闇夜を眺めるように空を仰ぐ。湖畔を吹き抜ける風が木々を、水面を、さわさわと揺らした。……月光だけが照らす水辺は、こんなに明るかっただろうか。否、いくら湖畔とはいえ、森の中で月明かり一つでこんなに目を細めたくなる訳がない。目の前の光景が余りにも現実と掛け離れているから眩しいのだ。

 ばしゃり。

 水面に大きな波紋を作り、何かの衝動に駆られたローランサンは黙したまま月を見上げるイヴェールを腕の中に納めた。……普段なら文句を零す筈のイヴェールが何故からしくもなく大人しい。そのまま、言葉を点さないよう唇を奪えば、物欲しそうに口を開く始末。

 一瞬、今口付けているのは本当にイヴェールなのか疑問に思ってしまった。だが、それは互いに同じだろう。自分でも訳が分からない。好き好んで同性――しかもよりによって相方に手を出す程落ちぶれているなんて思いもしない。イヴェールだって拒絶しようと本気で思えばできる筈。なのにこうしてしまうのに吝かでないのは何故だろう。

「ん……、ふ…っ」

 急に静かになってしまった虫達の所為で漏れる息遣いだけが静寂を支配する。口内を蹂躙し歯列をなぞる舌がイヴェールの熱を上昇させ、白い肌に朱が差す。

 唇を解放すれば、とろんとした緋と蒼の双眸とかち合った。濡れた頬の辺りを伝う雫を舐めとってやると、悪戯に食むような仕種で唇を啄んでくるものだからもう思考なんてどこかへ消え失せてしまった。

「…ロー、ランサン」

 吐息混じりの呼びかけは二人の距離が限りなくゼロに等しい中でかけられた。ローランサンは薄い唇を塞いでしまう前に、再び言葉が紡がれるのを待った。

 そんな言葉、今までこの口から聞いたことがあっただろうか。

「…………ありがとう」

 余りにも真っ直ぐな言葉を、語尾を掬うように奪ってやった。








end.
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前置きが長すぎて申し訳ないです…。







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