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傷、再生、








 いつものように黄昏の屋敷へと足を運んだ賢者は、これまたいつものように扉を小さくノックして中へと入る。挨拶をすれば、いつものように屋敷の主人が和やかに迎えてくれる筈。

「Bonsoi…」
「ぼんそわ! Savant、あのね!!」
「…………Monsieur Hiver、少し落ち着きなさい」
「えっと、ごめんなさい…」

 あまりの勢いで言い寄られ、流石の賢者も驚いた。一呼吸置いてから、あやすような声音でイヴェールを窘める。

 どうやら自分でも落ち着きがなかったと反省したらしいイヴェールは途端にしゅんと肩を落とした。今彼に動物の耳でも付いていたとしたら、それがへにゃりと垂れているような状態だ。賢者は見るからに反省の色を濃く滲ませる緋と蒼の双眸を目にすると、余計に甘い声色を使わざるを得なくなった。

「……言ってごらんなさい」
「うん、」

 賢者が話を聞いてくれることが分かったイヴェールは顔を一瞬綻ばせたが、何故か直ぐに辛辣な表情を浮かべた。……神妙なことなのだろうか。唇を引き結び、イヴェールが言葉を濁しながらぼそぼそと話しだした。

「…痛い、んだ」
「? 何がだね?」

 痛い? 朝と夜の狭間で漂うだけの彼が? 傷を負ったとでも言うのか? ……否、血の香りなどはしない。つまりは心的なものであろうか。

「……いや、痛いと言うか、なんか気持ち悪いと言うか…」

 やはりそうであろう。言い澱むということは上手く言葉で表現できないということだ。つまりは、彼自信も明確に痛みの根源が何たるかを理解していないと判断できる。

「曖昧すぎて真理になっていない。まずは痛む箇所を示してごらん?」

 ここは諭すように答えへと促すべきだろう。恐らく精神へ訴えかける物語を紡いだか、若しくは書物で目にしたか。どちらにせよそのようなことが彼の琴線に触れ、何らかの障害をもたらしたと考えるのが適当か。

 ならば彼の回答――つまり痛む箇所は、胸、またはその奥……、

「……下唇の、裏?」

 ――の筈だったのだが。

 賢者は今まで散々懸念と思惟を繰り返した自分を時を遡って逆に諭してやりたいと思った。

 嗚呼、これだからこの焔は面白い。

「……何故疑問詞が付くのだね……まぁ良い。イヴェール、こちらへ」

 杞憂でよかった、ともすら思う。いつから私はこんなに一つの焔に固執しなければならなくなったのだろう。恐らく自身では気付かぬうちに彼の事を気に入ってしまっているのか。この私が、か? 

「…何?」

 不安げに首を傾げながらこちらに近寄ってくる冬の幼子。小さな子供だからこそ面白い。だが、唯の子供でもないということも事実。賢者と呼ばれる自分がこれ程まで一人の焔に喜びを見出だすことは稀。何かが沸々と沸き起こる感情も――初めてではないにせよ、それはまた違った類いのものではないだろうか。出逢った当初のような『興味本位』などという言葉だけでは到底表現できそうにない情が、渦巻くのが判る。

 眼前に瞳をしばたたかせて怪訝そうな表情を浮かべる冬の愛し子がいた。……本題を忘れかけていた。下唇の裏に得体の知れない痛み。恐らく考えられるのは一つくらい。

 賢者はそう思考を廻らせると、イヴェールの頤に手をかけ上を向かせて少し横暴に下唇をめくった。

「わっ、」
「じっとしなさい」

 軽く牽制されただけなのにイヴェールは何故か微塵も動けなくなった。いつでもそうだが、賢者が真摯な表情を浮かべると視線が棘のように痛い。何も叱咤されている訳ではないのだが、どうにもこちらまで畏まってしまう。

「……やはり口内炎だね」
「……こーな、うぇ?」
「口の中を噛んだ覚えは?」

 聞いたことのない言葉に首を傾げて素っ頓狂な発音をするイヴェールを余所に、賢者は発端を探ろうとまた尋ねる。

「…あ、昨日ちょっと躓いて噛んだ、かも」

 君は本当に落ち着きがないね、と呆れたように溜息を零す賢者には小さな笑みが浮かんでいた。イヴェールは小さく俯き、一言、ごめんなさいとか細い声で謝った。

「大したものではない。直に治るから暫く我慢なさい」

 賢者は申し訳なさそうに俯く柔らかな銀髪を優しく撫でた。そんな慰めにイヴェールも漸く柔らかな笑みを零した。

「あとは甘い物ばかり摂っているのも原因かもしれないね」
「そうなの…?」

 あまり論理的なことを言っても全ては理解できないだろうと思った賢者は上辺だけの簡易な説明をした。勿論、イヴェールの顔には訳が分からないと思い切り書いてある。そんな彼をちらと見つつも賢者は外套を羽織った。

「姫君達に言っておくよ。主人をあまり甘やかさないように」
「……サヴァンの馬鹿」
「一応君の為に言っているのだが?」
「むぅ…」
「拗ねることはない」
「す、拗ねてない……けど、なんで?」

 賢者は疑問符を頭の端に浮かべるイヴェールを見遣り、胡散臭い笑みを残して踵を返した。





 その分、私が甘やかせばいいのだろう?






end.
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私は世の賢者様ファンに土下座するべきだと思う。すみません、もう別人で申し訳なさすぎます…;







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