drrr!! | ナノ

 どうしようもなく惹かれるのは、彼が非日常だからだろうか。
 帝人はそっと息を吐いた。
 静かな喫茶店。クラシカルな音楽に落ち着いた木の匂い。何もかもが、外の世界から隔絶されている。
 初めてここへ来たときは、あまりにも自分が場違いに思えて入ることさえ躊躇った。しかしそれも三度目となれば慣れもする。
 店の最奥に設られた四人掛けのボックス席を陣取り、ソファに凭れながら帝人は一人カフェオレを飲む。
 一人で四人掛けの席に座るのは気が引けたが、いつだって人の少ないこの店では文句を言われることもなく、いつの間にか自分の特等席になっていた。
(似合わないなぁ)
 思いながら止めることができないのは、この世界が心地好いからに他ならない。自分は苦笑して、今のこの現実を受け止めるだけだ。
 帝人はカフェオレをかき混ぜ、ぼんやりと白と黒の境界が消えていくのを眺めた。



「おいちゃんとお茶なんてどうだい?」

 今時ナンパをするにもそんなセリフを使ったりしない。そんな言葉を投げかけるには相手が悪いと冷静に判断して、帝人は振り返った。
 へらりと愛想よく笑った顔は、お世辞にも愛嬌があるとは言い難い。右目を縦に過ぎる傷跡、派手な色のついたサングラス。それに似合ったスーツは高級そうではあるがやはり目につく色をしている。彼の手にある杖も凝った意匠で飾られていて、男がその筋の人間であることを隠しもしない。
(あ、正臣が使ってたかもしれないなぁ)
 親友の感覚が古いのか、それとも未だにこの誘い文句が現役なのか。帝人には分からない。後者なら男に謝罪の一つでもしなくてはならないが、どうでもいいいことだ。
 脅えた様子もなく帝人は小さく笑んだ。

「こんにちは、赤林さん」
「やぁ。名前覚えてたのかい」
「忘れたりしませんよ」

 名前を呼ばれた男――赤林が意外だとでも言うように驚いてみせる。わざとらしいその態度に苦笑して応えた帝人は、それが少し嫌味っぽくなったかもしれないと反省した。しかし見上げた赤林に気分を害した様子はない。帝人はそっと息を吐く。

「竜ヶ峰くんだったかな?」
「はい」

 赤林はへらへらと笑ったまま軽い調子で言った。

「おいちゃんと、お茶しないかい?」

 帝人は呆然と立ち竦んだ。本当にお茶に誘われるとは思わなかった。
 確かに、お茶をしようと声を掛けられたから足を止めた。けれどそれは帝人の注意を引きつけるためのもので、額面通りに受け止めるような言葉ではない。ナンパなら間違いではないが、帝人は男だ。そして赤林も。
 それに、自分と彼はお茶をするような仲ではないはずだ。
 一度、杏里を介して自己紹介をしただけの男。名前を忘れなかったのは、帝人にとって人生で初めて会ったその筋の人間だったから。余りにも強すぎるその印象を忘れるほど、帝人はぼんやりしていなかった。
 困惑したまま固まった帝人に赤林は更に言葉を続ける。

「なぁに、少し暇潰しに付き合って欲しいだけさ。用事があるなら無理にとは言わない。どうだい?」

 にこりと笑う、視界に入れてから変わらない男の笑顔に威圧感はない。しかし何一つ変わらないその顔は不気味さと共に恐怖を抱かせる。
(はじめから断らせるつもりなんてないんだ)
 漠然と男の意思を理解した帝人には、頷くことだけが許された。

「良かった、それじゃあ行こうか。近くに良い喫茶店があるからそこにしよう」

 さらさらと流れる言葉は、予め用意されていたものだろうか。そんなことを思いながら軽く相槌を打って、赤林について歩いた。
 赤林は最初から一人だった。何か個人的な用事だろうか。彼と帝人の接点は杏里を除いてないはずだ。彼女は彼にお世話になっているのだと言った。ならば彼女に関わる話かもしれない。脳裏に同級生の姿が浮かんで、消えていった。

「ここだよ。さぁどうぞ」

 どうやら着いたらしい。こじんまりとした、何処にでもあるような喫茶店だ。
 喫茶店というのはなんとなく高校生には敷居が高い。カフェなら気安いが、喫茶店と言われると無意識に身構えてしまう。それは覚えたての珈琲の香りや聞き慣れない音楽のせいかもしれない。すべては帝人の想像でしかないが、きっと間違っていないはずだ。子供にはまだ早い、と何かが帝人に言う。
 帝人が扉を前に躊躇していると背中にそっと手が添えられた。大きな手に促されるように一歩踏み出す。動き出せばあっという間だ。からん、と鈴が鳴って「いらっしゃい」と低い嗄れた声が続く。
 カウンターの中で初老の男が一人、新聞を読んでいる。彼以外に人はいない。ちらりと二人を見て微笑んだ初老の男――店のマスターなのだろう――は、立ち上がる気配も見せず、帝人は片手で挨拶した赤林に促されるまま奥へ奥へと足を進めた。

「まぁ座って座って」

 小さな店の最奥に設けられたボックス席に案内される。
 彼はこの店の常連なのだろうか。帝人はソファに腰掛け、向かいの椅子に落ち着いた赤林を見た。直ぐにメニューを手渡される。

「好きなものを頼みな。奢りだから遠慮せずにどうぞ」
「……ありがとうございます」

 半ば無理やり連れてこられたのだ。珈琲の一杯くらいご馳走になってもいいだろう。そう開き直って礼を言うが、やはり申し訳ないとも思う。
 開いたメニューは他の店と変わりない。商品の説明書きもない名前だけが書かれたシンプルなメニューだった。珈琲の種類は多いかもしれない。しかしあまり珈琲を飲まない帝人にはそれらの違いは分からなかった。一通り目を通して顔を顔を上げる。

「じゃあカフェオレをお願いします」
「それだけでいいのかい?」
「はい」
「そうか。――マスター、珈琲とカフェオレお願い」

 カタリ、と音がした。木の擦れる音だ。それがマスターの返事だった。

「まったく無口な爺さんだ。そこが気に入ってるんだけどねぇ」

 へらりと笑った赤林は何処か子供っぽい。帝人もくすりと笑い返した。
 珈琲とカフェオレが運ばれてくるまでとりとめもない言葉を交わした。学校はどうだ、テストがどうだ。帝人ばかりが話して、赤林はそれに相槌を打つだけだった。けれど、不思議と嫌な感じはしない。相槌も質問もテンポ良く返ってくるし、付け加えるように彼自身のことも話してくれた。彼は聞き上手だった。
 無口なマスターがやって来て、ことり、とテーブルにカップを置いた。帝人が「ありがとうございます」と言えばやはり皺の深い微笑みを返されるだけで直ぐにマスターは戻っていった。
 一口カフェオレを飲んだ帝人はその温かさと苦さと、ほんのり香る甘さに安堵した。

「美味しいですね」
「そうか、そりゃ良かった」

 熱い液体が喉を通過して、帝人は自分が緊張していたことに気付いた。当たり前だ、カフェオレだけが帝人にとって日常そのものだった。改めて、自分が身を置く非日常さを理解する。そうして、どうしようもなく心が高鳴った。
 それから二人は色んな話をした。どうでもいいようなことばかり、言葉が途切れては終わりだと、それは嫌だと、ただひたすら二人は言葉を紡いだ。
 この時間はいつまで続くのだろうと帝人が考えたそのとき、終わりはやって来た。
 ピリリ、という電子音が店内に響いた。赤林はスーツから携帯を取り出して「悪いな」と言うと電話に出た。ぬるくなったカフェオレを飲んで、帝人も携帯を取り出した。
 赤林と会ってから少なくとも一時間は経っている。正確な時間は分からない。しかし予想以上に経過していた時間に驚いた。
 ぱたん、と乾いた音がして電話が終わったことを知らせた。帝人が顔を上げると赤林は携帯を揺らした。

「悪いな、仕事だ。もう行かないと」
「そうですか」
「暇潰しに付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそご馳走様でした」
「楽しかったよ。また話せるといいなぁ」
「お仕事頑張ってください」

 立ち上がった赤林に帝人はにこりと笑った。少し瞠目した赤林は直ぐに笑って、帝人の頭を撫でた。

「お前さんも、気つけて帰れよ」

 それが飲み終わるまでいるといい。それだけ言うとそのまま赤林は店を出て行ってしまった。
 終わってしまえば実に呆気ない。帝人は日常と非日常の間で宙ぶらりんにされたような心許ない気分になる。
 カップに半分近く残ったカフェオレは少し分離していたようだ。一気に飲み干したそれはところどころで味が違って、甘いやら苦いやらちぐはぐしていた。ふと日常に戻った、そんな気がした。



 それが帝人と赤林の始まり。だがそれっきり、だった。
 知り合いじゃない。メアドも番号も交換しなかった。次を約束したわけでもなかった。それっきり、二人の関係は一度完結している。始めるには、また接触しなければならない。しかし何のために?
 彼に会いたくなって1週間が経つ。ぐるぐると悩みだしたのが5日前。もう一度会えば分かるかもしれないと思ったのが3日前。喫茶店に通い始めたのが昨日から。
 連絡先は知らない。名前しか知らない男に会うことはひどく難しい。杏里に頼むことも考えたが、彼女はこの繋がりに必要なかった。これは自分と彼だけの関係だから。そして帝人は思い出した、この喫茶店を。もしもう一度赤林に会えるならここ以外に有り得ないのだ。
 学校が終わって夜になるまでの、ほんの数時間。同じ席に座って来るかどうか分からない男を待っている自分に、帝人は呆れるしかなかった。
(明日は本でも持ってこようかな……)
 何もせずにぼんやりして過ごす時間は、面白くもあり退屈でもある。
 喫茶店に流れる時間はゆっくりしている。時計がないからだろうか。それとも流れる音楽がゆったりとしたものだからか。こんな場所では携帯を出すことも憚かられて帝人は手持ち無沙汰だった。
 考えることしかできない。けれど、余計なことばかりぐるぐると考えて落ちてしまいそうだった。そして、気づくのだ。赤林といたときは何も考えていなかった事実に。
 この場所だけでは駄目だと気づかさる。どうしても会いたいのだという気持ちばかりが増幅される。居心地が良かったはずのこの場所に座っていることが耐え難く感じる。気付いてはいけなかったのだと、今更気付いても遅い。もっとよく考えて行動すればよかった。そうすれば、あのまま完結させていればこんな気持ちにならなかったのに。帝人の頭の中で同じ言葉が何度もくり返される。――会いたい。
 どうしようもなく彼に惹かれたのは、甘くて狡くて、誰よりも大人だったからだ。
 帝人は唐突に理解する。自分が欲しかったのは、非日常ではなく日常だ。時間も忘れてくだらないことを話し続ける、よくある日常が自分にはなくて。それを知って望むまま与えてくれた男は狡い大人だった。逃げる道は用意してくれなかった。
(はじめから逃がすつもりなんてなかったんだ)
 ひどい、と呟いた言葉は静かに消えていく。

「何がひどいんだ?」

 唐突に聞こえた言葉に戸惑う。それは会いたいと切望していた赤林のものだ。
(何処までも狡い人だ。心の準備すらさせてくれなんだから)

「……あか、ばやしさん」
「そんな泣きそうな顔するもんじゃない」

 手放してあげられなくなるだろう。赤林がそっと帝人の頬に手を触れた。
 ああ、狡い。帝人は触れた温もりに目を閉じた。硬い皮膚から伝わる熱は何より優しかった。

「どうした?」

 こんなときでさえ、赤林の態度は変わらない。軽い調子で言葉を発する。それに安心すると同時に少し怖くなった。
 今この手を掴んだら、本当に後戻りできない。それでも。
 帝人は恐る恐る、赤林の大きな手に自分のそれを重ねた。

「……捕まえた」

 そう言ったのはどちらだろうか。
 二人は目を合わせてにこりと笑う。
 彼に比べ、自分はなんと無防備か。けれどそれも子供の特権だ。望めば与えてくれる日常に、帝人は静かに寄り添う。

「赤林さん」
「ん?」
「だぁい好き、です」
「おいちゃんも好きだよ」
「だから、僕を一人にしないでください」

 お願いです、帝人のコトバはゆらりと揺れて消えた。




(偽りの日常でも、構わない)



* * * * *
初赤帝でした!
馴れ初めになってなくてすいません。赤林さんの口調が分からない。狡い大人に無防備な子供が依存する話です。
BGMは中島美嘉「あなたがいるから」

2011/03/06



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