彼女の視線の先は気がつけばいつも、彼だった。それを帝人が知ったのは、彼を見つめる彼女と同じように、自分が彼女を見ていたからだ。
帝人は彼女が好きだった。それは身を焦がすような恋ではなく、どこまでも淡い憧れにも似た感情だった。だから彼女の傍にいられればそれでよかったし、ほんの少し笑いかけてさえくれればよかった。帝人は、彼女と友達のままこの恋を終わらせるつもりでいた。
しかし、予想外だったのは彼の存在だった。名を平和島静雄。同級生ではあるが、帝人と比べると大人と子供ほど体格が違う。顔立ちも雰囲気も、何もかもが違う。
――園原さんだって男らしい人が好きなんだよね。帝人は口から出そうになったため息をぐっと飲み込んだ。
別に、恋敵だからと言って嫌っているわけじゃない。むしろ憧れてさえいる。静雄の持つ圧倒的な力は、男であるが故に憧れざるを得ない。それほどまでに凄まじく、それ故に自分と比べるのが申し訳ないとさえ帝人は思っていた。
けれどそれはあくまで同級生、ひいてはクラスメートとしての静雄に対する帝人の評価だ。静雄にはいろいろよくない噂もあるが、実際に被害にあったこともなかったので帝人にとってそれ以上でも以下でもなかった。恋敵と憧れが同じくらい、プラスマイナスゼロ、顔見知りの他人。
それが狂い始めたのはいつの頃からだろう。
「おい」
何もすることがない休み時間。次の授業の準備を終え肘をついてぼんやりしていた帝人にかけられた声は、あまりに聞き慣れないもので、帝人は一瞬それが自分にかけられたものだと気づかなかった。
「……おい、竜ヶ峰!」
苛立たしげに揺れる声が己の名前を呼んで、初めて自分にかけられたものだと理解した帝人は、瞠目しながら顔を上げた。そこには、薄く眉根に皺を引いた平和島静雄がいた。
「ご、ごめん。少しぼーっとしてて」
憮然とした態度を崩さないが、帝人の謝罪に怒りが落ち着いたらしい。静雄の表情が幾分和らいだのを見て、帝人は顔に出さずほっとした。そして彼が自分から話しかけてくるという珍事に首を傾げる。
「どうかしたの?」
「いや、大した用じゃねぇんだけどよ……」
はっきりしない静雄にますます首が傾く。
何か気に障るようなことをしただろうか。そう思ったが、帝人と静雄に個人的な接点はない。
(もしかしてこっそり見てるのが、バレたのかな?)
帝人の視線に気づいた静雄が「じろじろ見てんじゃねぇよ」と文句を言いに来たなら得心がいく。しかし、それにしては静雄の様子は変だった。
結局、彼が話し出すまで待つしかない帝人はきょとんと彼を見上げていた。
ふと、視線を泳がせていた静雄と目が合う。途端に目を丸くした静雄が顔ごと反らしてしまった。何が起こったのか分からず、帝人はぽかんと口を開いた。
「な、んでもねぇ」
(いやいや、絶対何かあるよね!? その反応!)
ふらふらとそのまま離れていく静雄の背中に声をかける勇気もなく、呆然とした帝人は、次の授業が始まるまでフリーズし続けた。
それからだ。静雄の様子がおかしくなったのは。いや、静雄の帝人に対する様子だけがおかしくなった。
特におかしいのは挨拶だ。
それ自体は普通だ。クラスメイトになったときから、挨拶くらいはしていた。静雄からの返事はいつだって「よお」とか「はよ」とか気の抜けたものだったが、声をかければ返ってきた。
変わったのはあの日以降、静雄から声をかけられるようになったことだ。かけられる言葉は前と変わらない。しかし帝人が返事をすれば静雄は狼狽え視線が定まらず挙げ句顔を真っ赤にする。それでも去っていく背中は何処か満足そうなのだ。
他にもおかしなところはいくつもあった。たまたま静雄と目が合えば勢いよく目を反らされる。かと思えば視線を感じてそちらを見ればばっちり目が合うのだ。けれどそれも直ぐに反らされてしまう。こちらから声をかければぎくしゃくして会話にならないし、向こうから呼ばれても何もないと言われて終わりだ。全く意味が分からない。
「何なんだろう?」
「どうかしましたか?」
帝人が静雄の変化について考えていると、いつの間にか近くにいた杏里がいた。驚く帝人に「すいません」と控えめな声がかけられる。
「いや、謝らないで。ぼーっとしてた僕が悪いんだから。あ、おはよう園原さん」
「おはようございます」
取って付けたような挨拶にも、杏里は気にした様子もなくいつもと変わらない返事をくれた。帝人は安堵する。
「それで、何かあったんですか?」
深刻な顔をしてましたから、と付け加えられたことで「何でもないよ」と言えなくなった帝人は、杏里に相談することにした。
正直、そろそろ限界だった。日常の中の小さなイレギュラーはそれ自体は大したこともないのに、積み重なれば処理できなくなる。気にしすぎるのはいけないと分かっていても、気になるのだから仕方ない。それほどに静雄の行動は不可解だ。いや、分かりそうだからこそこんなにも気になるのかもしれない。そして、自分の考えが間違っていると誰かに否定して欲しかったのだ。だからこそ、杏里に話そうと思った。
帝人は、静雄の不可解な行動とそのきっかけであると思われるあの日のことを話した。なるべく客観的に、自分の考えを取り除きながら。
そしてすべてを話し終えた帝人が息をついたところで、杏里は普段通りの何を考えているのか分かりにくい表情で言った。
「平和島くんは、竜ヶ峰くんのことが好きなんじゃないでしょうか」
「――え?」
「最近の平和島くんが竜ヶ峰くんに対してだけ様子がおかしいのは確かですから」
冗談を言っているようには見えなかった。帝人が期待していた言葉と正反対のそれはつまり、杏里が帝人と同じ結論に至ったことを示していた。
どっと重くなった肩に辟易しながら、それでも帝人は諦めがつかず抵抗してみせる。
「でも、僕も平和島くんも男同士だよ?」
「恋愛は人それぞれです。それに恋だと仮定すれば、平和島くんの行動すべてに説明ができます」
それも実に呆気なく破られてしまう。こうなればいよいよ信憑性が高まるだけだ。
考えないようにしてきたが、それもこれまでらしい。そう、帝人はなんとなくではあるが静雄の気持ちに気づいていた。静雄の行動は、中学生でももっと上手くやるだろうと思えるほど、分かりやすかった。
「……何で僕なんだろう」
「それは私にも。あの、これも私の憶測なんですけど、平和島くんは自分の気持ちに気づいてないんじゃ……」
「そうかも、しれないね。アハハ」
平和島静雄という男は、自分に向けられる悪意には敏感なのにそれ以外はまるで鈍い。自分の感情さえ理解しているか怪しいところだ。
初恋を知ったばかりの小学生男子がどうすればいいか分からないまま、好きな女子にちょっかいを出すのに似ている。あからさまなのだ。そして無自覚なのだから手に負えない。
(どうしろっていうんだよ)
静雄が何もしないなら、帝人にできることは何もない。けれどずっとあの態度を続けられたら堪らない。帝人は重くなった溜め息を吐き出した。
「でも、良かったですね」
「……何が?」
杏里には帝人の溜め息が聞こえなかったのだろうか。恨めしげに見つめた杏里は、珍しくにっこりと微笑んでいた。それにどぎまぎしながら杏里に言葉を促す。
「晴れて両想いですから」
帝人はあんぐりと口を開けた。そして直ぐに顔を赤くする。
「え、いやっ、違っ違うよ! 僕が好きなのはっ――」
園原さんだから、と続けるはずだった言葉は音にならず飲み込まれた。ニコニコと笑い続ける杏里が好きなのは確かだ。けれどそれは大切にしたいとかそういう感情で、決して恋慕や欲情ではなかった。それは帝人自身が一番理解している。
「僕は別に、好きな人なんて……」
結局、帝人は苦し紛れに言葉を変えた。杏里がまさか、と呟いて目を見開いた。
「……もしかして、気づいてなかったんですか?」
「気づいて……?」
「竜ヶ峰くんは気づいてるんだとばかり」
「ちょ、ちょっと待ってよ。何の話をしてるの?」
帝人を置いてきぼりにした杏里の瞳に憐れみの色を見つけ、帝人は憮然とする。何で僕がそんな瞳で見られなきゃならないんだ。けれど杏里の言葉なしに会話は収束しない。
帝人はじっと待った。杏里は言おうかどうか数秒迷っていたようだが、帝人が譲らないと分かるや溜め息を吐いた。自分で気づいた方がいいと思うんですけど、と控えめに言われ、帝人はごくり、と唾を飲む。
「竜ヶ峰くんも平和島くんのことが好きなんですよね」
疑問ではなく断定された表現に、帝人はくらりとする。
「何で、そう思うの」
絞り出した声は少し掠れている。
そう答えた時点で認めたも同然だということに帝人は気づかない。
「平和島くんのことを目で追ってますし、挨拶が返ってきたら嬉しそうです。それに……」
「それに?」
「何と言うか、恋する少女のオーラが……」
そこまで言うと杏里は申し訳なさそうに顔を伏せた。
しかし帝人は杏里の最後の一言に大打撃を受けていて、それに気づくこともなかった。
「……色々、突っ込んだ方がいいのかな?」
なんとか持ち直した帝人は恐る恐る杏里を見るが、彼女は首を傾げるばかりだ。自分の言葉の威力が分かっていない。冗談ではない杏里の本気に帝人は少し泣きたくなった。
「あ、平和島くんがこちらを見てるので私は自分の席に戻りますね」
「えっ、園原さん?」
ペコッと頭を下げて杏里は去っていった。
残された帝人はいよいよ泣きたくなるのを我慢する。
(どうしてバレたんだろう)
考えるのそればかりだ。静雄の気持ちを否定できないでいたのは、自分の気持ちを否定することになる。だからこそ、他人に否定してもらいたかった。
帝人は気づいていた。
「――なぁ」
横から聞こえる声を間違えることは、もうない。
タイミングが悪いと思いながら帝人はそろそろと顔を上げた。
「どうしたの、平和島くん」
真っ直ぐに帝人を見下ろす静雄の目はいつになく真剣だ。何を言われるのか。自然と身体が強ばった。
「……帝人」
「え?」
「帝人って、呼んでいいか?」
何を言われたのか理解できず静雄を見つめるばかりの帝人だったが、返事をしなければいけないと冷静に判断しコクコク首を振った。
「じゃ、それだけだから」
満足そうに一つ頷いて静雄は踵を返した。足を進める前に振り返って、視線をさ迷わせる。帝人は小首を傾げた。
「あー、またな。帝人」
早口に告げられた言葉に、帝人の血が瞬間的に沸騰する。赤くなった顔を誰にも見られたくなくて、机に突っ伏した。
ちらり、と横目で追った静雄の後ろ姿。派手な金色から覗く耳と項が、少し赤いのに気づく。帝人はいたたまれない気持ちで目を閉じた。
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(明るく輝く金がいる)
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無駄に長い。静→←帝でごめんなさい。シズちゃん視点も面白いかもしれないなぁ。
2011/02/23