終着駅まで




 あての無い旅をしている。そんな気がしていた。もうずっと、気が遠くなるほど前から。

 髪の毛が揺れる。冷たく硬い風に目線を上げれば、薄い雲が随分と高くあるように感じた。もうすっかり冬の空だ。
 外気にさらされている両手が冷たい。もう一枚着てくればよかった。そう思いながら首にひっかけてきたストールを手繰り寄せた。
 最近は比較的あたたかな陽気が続いていたせいで油断していた。ストールを巻いてきただけましだろう。
 心なしか逸る足取りで目的の場所へ急いだ。

 自動ドアを抜ければ「いらっしゃいませ」と活気のある声がする。店内は明るく賑わっていた。なんということはない、よくあるチェーンのカフェテリアだ。
 いつも注文するカフェラテを選びかけ、ふとメニューの一番目立つ場所に書かれた“期間限定”の文字に目がとまる。
 どうやらホットチョコレートにマシュマロとホイップクリームが浮かんでいるようだ。ポップな見た目はいかにも女性が好みそうである。
 暫し考えその期間限定のドリンクを注文し、カウンターで受け取ってから席に向かう。
 大通りに面した窓際のカウンター席がいつも選ぶ場所だった。椅子を引き腰を下ろす。
 ホットチョコレートが入った紙のカップを両手で包み込み、指先まで冷え切っていた手を温める。じんわり伝わってくる熱は数十秒もたてば途端に持っていられない程熱く感じた。
 チェーン店は、静かすぎないのが良い。
 あちらこちらから聞こえてくる音が心地よい。会話として聞き取れるほどではなく、意識せずすり抜けていくような喧騒が好きだった。
 大きな窓から眺める景色は、大通りということも手伝って多くの人が忙しなく行き来している。
 皆、誰もこちらを気にすることはない。こんなに大きな窓からじっと外を見つめていても、行き交う人々はこちらを気に掛けることはないのだ。そんな景色をボーっと眺めるのが好きだった。

 流れるような動作で紙コップを傾ける。いつもとは違う味に一瞬驚いた。
「あまい……」
 
 小さくつぶやいた言葉は誰に聞かれることもなく、ホットチョコレートに浮かぶ溶けかけのマシュマロと一緒に沈んでいった。

 もうずっと長いこと旅をしている。
 そんな気がしている。
 理由は分からないけれど、幼いころからそんな意識があった。
 その旅の目的が何なのか、どこに向かっているのか。それはまだ分からないけれど。
 どこかが欠けている。何かが足りない。それを探している。

 だからという訳ではないけれど、週末になると特に目的もなく外出をする。
 駅に併設された大型書店の文庫本コーナーを巡回し、興味を引くものがあれば購入する。ブックカバーはいりません、そのままで。そうやって購入した文庫本を左手に、このカフェテリアにやってきて、真ん中のサイズのカフェラテを注文する。夏はアイスを。冬はホットを。そうして窓際のカウンター席に座る。人の気配は沢山あるのに、そのどれも自分には無関心で、居心地が良い。喧騒の海に身を浮かべ、行き交う人を眺める。持ち込んだ本を読む。そうやってゆっくりと過ごし、日が傾いてきたころに帰路につく。
 今日は一つだけいつもと違うことがあった。マシュマロが浮かんだホットチョコレートを買った。思った以上に甘かったが。

 せっかく買った文庫本は、いまだに開かれないままテーブルの上でじっとしている。今日はなぜだか集中して読める気がしなかった。
 窓の外では相変わらず多くの人間が行ったり来たりと忙しそうにしている。
 そこに、ふと、ただの“景色”として認識していただけのそこに、風に揺れる長い髪が見えた。後ろで一つに束ねられた髪の毛は、光の加減で濃紺のように見えた。それを認識し、初めてその人間の全貌をとらえる。長い髪とは裏腹に、歩いているのは細身だが長身の男性だった。黒いコートに身を包むその姿は何故か目を引いた。今日は一気に寒くなった。彼はコートを着てきて大正解だろう。目の前を通り過ぎていく瞬間、男がチラリとこちらに目をやった。
 珍しい。大通りを行く人は皆足早で、こちらに目をくれることはないというのに。
 珍しいと言えば自分もそうだ。いつもは景色としてとらえている人混みの中から、だれか一人を認識するなんて。
 自分の前を通り過ぎていく、一瞬にも満たない、ほんの僅かな時間。その一瞬、彼の瞳に何かが光ったような気がした。
 その瞳が赤く深い色をしていたのは見間違いだっただろうか。
 すっかりぬるくなったホットチョコレートを流し込みながら、なぜだかそれが気になった。


「いいですか?」
 店内は会話とも認識できないほど様々な人の声が行き交っている。その喧騒の中に明確に聞き取れる音があったような気がして、意識を浮上させた。
 耳になじむ声だった。それが自分に掛けられた声だと理解するのに時間がかかり、反応が遅れた。声のする方に顔を向けると、先ほどの目を引く青年がこちらを見ていた。
 近くで見た彼の片目は真紅に輝いていた。気がかりだったことがすんなり解決してしまった。
「隣」
「――あ、うん」
 こんなチェーンのカフェテリアで、わざわざ断って横に座るのは珍しいような気がして、なんとなく落ち着かない気持ちで左側に意識を向ける。
 自分と同じ柄の紙コップの中には、さらに同じく、湯気を立てたホットチョコレートと、溶けかけのマシュマロが浮かんでいた。こころなしか自分のものよりホイップクリームが多いのは気のせいだろうか。
 青年は涼しげな顔をしてコップを傾けている。意外だと思ったのだ。ブラックコーヒーを好みそうだと勝手に想像したのは、彼の出立が黒に包まれているからだろうか。しかしながら、その冬の空のような空気に似合わず、ホットチョコレートを注文するぐらいには甘党なのかもしれなかった。

「さっき」
 盗み見ていたのがばれていたのだろうか。青年は窓の外に視線を向けたまま口を開いた。
「こちらを見ていた」
 疑問符がついていなかった。彼の中では確信していたのだろう。
「皆さん、あんなに急いでどこに行くのでしょうねぇ」
 彼の言う皆さんとは、大通りを足早に行く人々のことだろうか。それとももっと遠くを映しているのだろうか。
「歩いて、歩いて、その道先に何があるのでしょう」
「君は何を見ているの」
 問いかけに、青年は振り向いた。こちらを捉えた真紅の虹彩は、やはり深い色をしていた。
「不思議ですね。一瞬にも満たない出来事だったと言うのに」
 かすかに口元を緩め、彼は面白そうに言った。

「六道骸といいます。どうぞ、よろしく」

 あての無い旅をしている。そんな気がしていた。もうずっと、気が遠くなるほど前から。
 その旅の目的が何なのか、どこに向かっているのか。それがようやく分かるような、そんな予感がしていた。
 旅の終着駅は近いのかもしれない。


(2018/12/9)



back main

×