次の日、ネロはまだ少しだけホコリっぽいベッドの上で目を覚ました。

僅かにカビ臭い気もするが、一晩寝る内に慣れてしまった。しかしとりあえず日光に当てておく必要があるかもしれない。
ネロは思いきり伸びをして時計に目をやる。朝の六時五十分、しかしこの時計がどうしても十分遅れてしまう事は昨日の時点で判明している。つまり現在七時だ。

目を左手で擦りながら、着替えを取り出し一階へ向かう。ソファーには誰もいない。昨日と違い、ダンテは自分の部屋で寝ているからだ。
ネロが昨日掃除をして使う事になったのは、長らくなにとしても使われて来なかった部屋。そして今日は、その部屋に置くものも含め必要なものを買い出しに行くと言う話になったのだった。

難なくシャワーを浴び終え、朝食の準備に取りかかる。卵をフライパンに割り入れ、ベーコンも一緒に焼く。その間に食パンをトースターに突っ込み、スイッチを入れる。
少し待って、サニーサイドアップとベーコンを皿に乗せ、トーストをとりあえず二枚、それとは別な皿に乗せて事務所へ向かった。ダンテが起きて来たところだった。

「おはよう…」

「ああ、…おはよう」

眠そうに目を擦り、頭を掻くダンテ。何だか子供みたいだ、と思いうっかり笑ってしまうと、ダンテが訝しげに首を傾げたので、何でもない、とキッチンに引っ込んだ。



「なあ坊や、」

目玉焼きをフォークでつつきながら、ダンテがネロを見る。

「何だよ」

「買い物だけどな、」

黄身が破けて中身が流れ出た。
難しい顔でフォークを置くダンテに、少しばかり不安がよぎった。ダンテが時折見せるこう言う顔は、少し苦手だった。

「…女物、やっぱ要るんじゃないか?」

フォークがみしりと嫌な音を立て、同時に深いシワがネロの眉間に寄る。

「…なんで、」

「必要だろ?要るものは買った方が、」

「何でだよ!…それじゃ俺が、まるで、…」

やはり行く前にこの話をして正解だった、とダンテは思った。くしゃりと顔を歪めたネロの目は潤み、握りしめた両の拳がぶるぶる震えている。

「…っ、」

言葉が出ないのか、がたんと立ち上がり、勢い良く階段を昇って行ってしまった。
それを見てダンテは溜め息を吐く。

──以前のネロなら。

良く知っていた訳ではないが、ネロの性格からして、こんな状況に陥ったら、きっと滅茶苦茶に暴れただろう。そうでなくとも、暴言のひとつは吐きそうなものだ。

何もせず、何も言わず、ただ泣いて立ち去るなんて。

「……これは…マズイな…」

ネロは急速かつ確実に、精神まで女性に近づいている。
それを受け入れる事が出来なければ、ネロは苦しみ続ける事になるのだ。

じゃあ、自分に何が出来るのか?

「…ったく、手ぇかかるな」

ダンテは立ち上がり、階段を昇って行った。腹は決まっている。
──たとえ殴られて怒鳴られて泣かれても、この状況を受け入れる手助けをしてやる他ない。



ネロはベッドの脇に座り込み、止まらない涙を左手で乱暴に拭い続けていた。
頭の隅では理解しているつもりなのだ。もしかしたら男に戻れないかも知れなくて、現在の自分は精神も女に近づいてきていて、
しかし理解は出来ても受け入れられるがどうかと言われればまた話は別だった。

「…っく、ぅ…」

涙腺が壊れたように止まらない涙が恨めしい。


幼い頃は、かなりの泣き虫だった。
少しの事で泣いて、よくキリエに慰められていた。
成長して、俺は男だから、と言う変なプライドが涙を押し止め、泣く事は無くなった。

しかし、今は。
女になってしまったではないか。俺は男だと自分に言い聞かせても、一回り以上に小さくなった身体では説得力がない。
一体何の虚勢を張れば良いのだろうか?ネロの涙を抑えていた立て板は消えさってしまった。

つまる所、本質的に、幼い頃から何一つ進歩していない。

強くなど、なっていなかったのだ。


「坊や」


ドアの向こうから聞こえた声に肩が跳ねた。

「坊や。…開けてくれないか?」

こんな薄っぺらなドア一枚、すぐぶち破れるくせに。
何故にそんな事を訊くのか。

ネロが動かないでいると、ドアが僅かに軋んだ。ダンテが背を向け凭れた音だった。

「…逃げんのか?」

ネロは唇を噛んだ。ああそうだ、これじゃあ自分はただ逃げているだけだ。でも認めるなんて出来ない。でも、

これでは、進歩なしの泣き虫のまま。

「……──」

ネロは立ち上がり、ドアノブを回した。ドアにかかっていた体重が消え去る。

「…すぐに全部受け入れろ、なんて無理だし、ンな事は言わねえ」

目の前の男は、真っ直ぐに自分を見てくれている。それだけで、不思議と勇気が湧くような気がした。

「不安になったら、苛ついたら、全部俺にぶつけろ。な?」

胸の中を凍りつかせていた氷が、徐々に溶かされていく。

「少しずつでいいんだ、だから、──ほら。行こうぜ」

差し出された大きな手を取ったのはほぼ無意識で、それでもネロに迷いも後悔も無かった。

女である事を受け入れるのは、自分を捨てる事じゃない。ただ、ほんの少しだけ変わるだけで、「ネロ」の本質が変わる訳じゃない。
しかしその「ほんの少し」がたまらなく恐い。

それでも、きっとダンテが居てくれたら、とネロは思った。

もう戻れない所まで惹かれてしまっている事に内心苦笑しつつ、ネロは挑戦的な笑みを浮かべた。

ダンテが口角を上げる事でそれに応えるのが、なんだかとても頼もしく思えた。

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