呪霊の箱庭


「…呪霊の喉?」

 自身の大きな手を顎を掴むように当て、夏油傑は補助監督の言葉を繰り返す。
 「はい」と頷いた補助監督がバインダーに挟まれた資料を読み上げるのを聞きながら、夏油は無意識に自分の喉をさらりと撫で付けた。

「ある一族の呪術界での俗称です。彼等──通称ノドは、普段は主に窓としての役割を担っているのですが、ごく稀に呪霊の封印・調伏も請け負っています。封印・調伏がされた呪霊は東京、京都高専のそれぞれに納品する形を取り、呪術界でのある種中立地位を築いてきた一族、というのがこの資料におけるノドの説明です。」
「成る程。一族については理解しましたが、今回私がその『ノド』の拠点に派遣される意図は?」
「実は────」





「これはまたずいぶんと」

 次の任務の送迎があるからと降ろされたそこは、随分と辺鄙な場所だった。人の手が加わった形跡は殆ど無い、森と呼ぶに等しいその場所は、朝と夕に一本ずつしか無いバスでしか辿り着けないらしい。平謝りする補助監督ににこやかな笑みで「構いませんよ」と告げた夏油は、さてどうしたものかと錆び付いたバスの時刻表に目を向けた。

行き
7:20
18:10


 行き先さえ無表記の時刻表は、バスの来る時刻が書いてあるだけのあまりにもお粗末なものだ。ボロボロの屋根と壁が付いたベンチが、辛うじてバス停の存在を肯定しているものの、本当にこんなところにバスが来るのか、と夏油が疑念を抱くに一役買っていた。自らの使役する呪霊で文字通り空を飛んで移動すればすぐだが、辺鄙とは言え非術師に空を飛ぶ夏油の姿を目撃されると面倒が生じる。夏油がバス停擬きに置き去りにされた時刻は十七時過ぎ、決して短く無い待ち時間だった。

 半刻程待った夏油は、思い立った。

 ────この分だと高専に戻るのは深夜、どうせ呪霊に乗って帰ることになるんだ。何を遠慮する必要がある?
 ────でもあと三十分だぞ。
 ────いや、既に三十分待ったんだ、また無駄な時間を繰り返すのか?こんな辺鄙な場所で?

 夏油傑という人間は、存外気が短い。なんせ夜からの任務は睡眠時間が減る上に、予約制の食堂を利用することさえままならない為に食いっぱぐれるか、売れ残りの質素なコンビニ飯。成長期にあるまじき待遇だ。
 そもそも自分の術式を駆使して何が悪い、悟なんてしょっちゅう破壊行動をしているのだから私のは可愛いもんだろう。
 夏油は二人いる同級生の一人、五条悟を思い浮かべて眉を寄せた。術式も存在も含めて、何かと派手な彼は呪術高専の問題児であった。夏油も問題児だと周囲から認識されているが、本人は五条よりマシだろうと知らんぷりを決めていた。
 ────さて、決まりだ。
 夏油が呪霊を呼び出そうとする。と、突然異様な気配と共に静かだった空間を切るように、柔らかい声が顔を出した。

「びっくり、こんな場所に人が来るなんて。大きな迷子かなあ」

 少しの距離をとって柔らかく夏油に降り注いだ声の主は、随分と容姿の整った少女だった。セーラー服を纏った彼女は、恐らく自分と同じ年頃だろう。間の悪い少女の登場に、夏油は溜息と少しばかりの苛立ちを飲み込み、人当たりのいい笑みを浮かべ口を開いた。

「や、どうも。まさかこんな辺鄙なところで人に会えるなんてね…ここらへんの人かな」

 物腰穏やかに問いかけながらも、夏油の警戒心を強めた。何故と問われれば、彼女から異様な気配がするから。夕暮れを過ぎ、薄暗さを纏った空に溶け込む艶やかで長い黒髪、浮くように白い肌、端正な容姿をいくらか親しみやすくしてくれる学校指定であろう鞄にセーラー服。一見すればただの容姿の整った女子高生だと言えるが、彼女から漂う気配のそれはあまりにも似通っているのである────『呪霊』に。
 呪力を見通す眼を持つ五条悟が居ればこの警戒心に確信を持たせることができるが、今此処に彼は居ない。特別なその眼を持たない夏油には、どういう訳でそうなっているのか、現時点ですぐに答えは出ない。目の前の彼女の危険度を数値化するのは難しい、だが今すぐ高専に連絡しなければならないような切羽詰まった状況でもない。が、まあ任務のついでだ。利用できるものはすればいいし、駄目そうなら自分でどうにか出来るだろう。そう、これも何かの縁だ。
 夏油は携帯で時間を確認し、もう一度彼女に目を合わせる。
 と。彼女は先程の夏油と同じ様に人当たりのいい─それもとびきり美しい─笑みを浮かべて口を開いた。

「ウン、そーよ。こんな辺鄙なところ、お出掛けできる場所だってないし…お兄さんは?」

 ふうん。
 もしも、夏油が青春真っ盛りで平凡な男子高校生なら、向けられたその笑みに少しは舞い上がっていただろう。彼女の笑みは、男を惹き寄せるものだった。しかし、それは夏油傑が"平凡な男子高校生なら"という話で、生憎彼は平凡と呼ぶにはかけ離れた世界に身を置いている。夏油がその笑みから感じたのは──嫌悪だった。自分の容姿と、その使い道をしっかりと心得ているであろう少女の笑みにもまた、こちらを探るような棘を感じたのだ。

「…こっちは少し用があってね、人を探してるんだ」
「へえ、人ねえ…こんな、辺鄙な、何もない場所で?」
「ああ。こんな、辺鄙な、何もない場所だから少し困っていてね」
「で、誰を探してるの」

 "辺鄙な場所"に人が来るのを余程不審がっているのか、彼女はそれをあからさまに強調し問い掛けてくる。

「祓已(はらい)という家を知ってるかい」

 夏油が答えると、彼女は二、三度ゆっくりと瞬きをする。

「…まあ、そうよね」「何て?」

 瞬きの後、ため息交じりに小さな声で呟かれた言葉を聞き返すが、彼女にもう一度同じ言葉を繰り返すつもりはないらしく笑みを浮かべるのみだった。

「そこの家知ってる。良かったら案内しましょうか、お兄さん」
「…それは助かるけど、いいのかい」
「ウン,そこのお家までの道って結構入り組んでるんだよね。割と有名なの、なかなか辿り着けないって」
「へえ…じゃあ、お言葉に甘えるよ。目的地まで案内してもらったら君の家まで送る、もう暗い」
「…意外と紳士なんだ」
「礼儀だろ」
「そ。じゃあこっちにどうぞ」

 少女は澄ました顔でバス停の前から歩き出す。それを見た夏油は「君、そっちは壁の裏でバスから見えないだろ…!」と声を掛ける。彼女は道から見えない、ベンチを覆う壁の裏側に歩き出したのだ。裏側に回れば、バスからは人が待っていることなんて分からない。携帯を取り出し時間を確認すれば、もうすぐバスが来る時刻に近付いていた。
 彼女が何の意図を持ってこんなわけのわからない言動をするのか理解の外だ、しかし、このまま乗り過ごす訳にはいかない。
夏油はとにかく彼女を引き戻そうと手を伸ばした。

すると、
────「時間、ピッタリ」

 呟かれた声と共に伸ばした手は逆に引かれ、見開いた夏油の眼前にはボロボロの木目が迫っていた。夏油は咄嗟に見開いていた目を固く閉じ衝撃に備え身を縮めた。

────いや、ちょっと待て。

────私の目の前に壁があるなら、彼女は何処へ行った?
────彼女は私の前を歩いていたんだぞ、先に壁にぶつかってるはずじゃ…!

 夏油は一瞬の間に思考を巡らせる。
 しかし、想像していたような衝撃が夏油を襲うことはなく、代わりに生暖かくぬるりとした異様な気配に全身が包まれた。既視感があるその気配を思い出そうすると、それを遮るように彼女の怠そうな声が耳に届く。

「ハイ、着いた着いた」

 届いた声に目を開け、夏油は目の前に広がる光景に再びその目を大きく見開いた。

「…は?」
「お兄さん、こっちだよ」

 少女は夏油の腕を掴んでいた手をパッと離し、すたすたと歩き出す。彼女の背を追いながら目の前の建物を見上げる。
 旧家のお屋敷と言われても納得するだろう、そのくらい立派な家屋だ。観音開きの門の端には『祓已』の表札が掲げられている。

「これは、一体…」
「あそこで待ってたってバスなんか一生来ないから」
「…君は」
「祓已衣代、お兄さんが探してたのは私の家だったオチね」
「そうか」
「お兄さん名前は」
「夏油傑、さっきのは?」
「キレーな名前ね。お兄さん、呪術高専の人でしょ。なら、ウチの説明受けてんじゃないの」

少女改め、祓已の言葉に夏油は任務に向かう前、補助監督にされた説明を思い出す。




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