004
玄関を抜け、幾つかの部屋を通り過ぎてリビングへ。革張りの大きなソファを無言で指差され、おずおずと腰を落とす。ふっかふかだ。でっかい綺麗な家といい、並ぶ趣味の良い家具といい、こりゃ相当お金かかってますよ。
「さっきから思っていたが、そうしてきょどきょどと慌ただしくするのはやめてくれないか。見ていて鬱陶しいし、目障りだ。」
「あ、」
目線を戻せば、彼の視線が突き刺さる。
「ごめんなさい。」
なんだっけ、そうそう岸辺さんだ。
岸辺さん、キシベでいいのかな。
「ほら、君の分。」
渡されたマグカップには、湯気をたてた紅茶がなみなみと注がれている。
溢さないよう受け取って、息を吹きかけて戴こう。私は猫舌なんだ。先ほどよりは毒が無いけれど、岸辺さんからの視線が全身に刺さる。無言の沈黙が痛い。な、何か会話をここでひとつ。
「岸辺さん、は、コーヒーより紅茶派なんですね。」
伺うようにちらりと目線を送れば、岸辺さんは目をぱちぱちと瞬かせた。
「君がな。」
「はい?」
「君がそうだろ。」
それも忘れてしまったのか、と、
その言葉を聞いて、涙が零れた。
「うわ、どうして泣くんだ!?」
岸辺さんは飛び上がって何処かへ駆けていくと、両手に大きなタオルを持って帰ってきた。流石の私も、そんなに涙は出ないだろうし、それは致死量では無いのでしょうか。
けれど岸辺さんが恐る恐る私の目元へそれを当てるのを見て、止まりかけた涙は再度溢れる。
ああ、私は何も憶えていない。大切なものは何もかも何処かへ落とした。
けれどこの人は私のことを覚えてる、私のことを知っている。それがとても嬉しいんです。ありがとう、けれど岸辺さんの記憶にいる私は、私と呼んでいいのでしょうか。私とは別の誰かですか。岸辺さんの中にいる彼女は、誰ですか。ごめんなさい、私の所為で、けれど私はただ嬉しいから、これじゃもう私は私じゃありませんよね。
どうしたらいい?
「もう泣くな。ああくそ、面倒臭いったらしないよ、君は。」
半笑いの顔で岸辺さんは、タオルで私の顔をごしごしこすりながら言う。
「岸辺さん、」
「何だよ。」
「岸辺さんがいてくれて、良かったです。」
白いタオルに隔てられ、岸辺さんの顔は見えない。向こうで、小さく空気を呑む音がした。
[prev] [back] [next]