《 白んだそれが以下略 》 | ナノ




003

私の左手首を引いて歩く、頭いっこぶん高い位置にある彼の顔を見た。その口は固く結ばれて、動くことは無い。先程きょろきょろしながら歩いていたら、みっともないから前だけ見てろとお叱りを受けて以来。だから黙って、ずんずん歩く彼だけを見ながらあとをついていく。改めて眺めるとこの人は、随分珍妙な格好をしているな、と。まだ肌寒いのにヘソ出し、変なヘアバンド。耳についたペン型ピアスがちゃりと揺れた。なんというかこの人、大丈夫かな、色々と。第一印象は、そりゃまあ、良くはない。いきなり怒鳴られたわけだしね。しかし今
一番恐ろしいのは、私の頼れる人がこの人しか居ないということだ。こんな時って警察に行くのか病院に行くのか、それでも成人済みの女が、気付いたらなにもわからなくなっていました、公園に居て行くところが無いのですと言ったところで、頭がおかしい奴だな、でしょ。それにこうなってしまった以上迂闊にうろうろするのも良く無いような。少なくともこの人は私のことを知っている、みたいだから。けれど私はこの人を知らない。記憶喪失、っていうのか?しかし私は、利き手は右だとか、夕飯の前に風呂に入ることだとかは、知っているのだ。すごく大雑把に言うと、私は、私の人生を知らない。苗字名前という人間が、今まで生きてきた過程を知らない。だけどここに存在していて、なんだか、それはとても気分が悪いのだ。私なのに、他人、みたいな。怖いなあ。

「おい、」

突然ナントカさんが止まったので、彼の背中へ鼻を打った。相変わらず鈍臭いヤツだな、とその人は舌打ち。

「着いたぞ。」

目の前にそびえる大きな家の表札には、岸辺≠フ二文字。

私は知る。
このナントカさんは、岸辺さんと、
いうらしい。


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