夕方6時半、いつもの時間。
ガチャガチャと玄関ドアの鍵の開く音がして、少々焦った声で名前を呼ばれる。

「名前〜?!居るんスよねえ?」
「ハイハイ、居ますよ。」

そうしてまた鍵の音。
靴を脱ぎ、ご機嫌な様子で鼻歌を歌いながらそのまま廊下を一直線、軽やかに進んでいた足取りは、ぴたりと私の後ろで止まった。

「んぎゃッ!またスパゲッティ‥‥」
「嫌なら食べなくていーのよ涼太君。」
「ううう食べるっスよお、お腹ぺこぺこ。」

私を飛び越えるようにぐいと顔を鍋に向け、ちょっぴり溜め息。それからしょんぼり顏をしたまま、涼太君はテーブルを拭く。

「あーあ、やっぱ俺がご飯作った方が良いんじゃないスか!?」

ばかちん、衣住をお前に握られててこれ以上食も揃えられたらこっちはまいっちんぐだ。私をどうする気だよ。
まあ、囲う気だよね、物好きなやつだなあ。

さらにフォークを並べる間も、彼はブツブツと文句を垂れていた。

「せめてソースは変えるべきっスよね。もう一週間はミートソースだけ食べてるっスよ。来る日も来る日もこの真っ赤なソースだけ。
まあ百歩譲ってミートソースは許すにして、市販のじゃなくてたまには自分で作るとかどうっスかね名前っちィ!」

最初独り言だったのが徐々にボリュームは大きくなり、最後は私へ向けて発っせられる。

「うっせえ喚くな涼太。んなこと言われたって作り方わっかんないよ〜だ、名前ちゃんはさ。」
「えっ」


まあただ面倒臭いだけなんだけどね、すっとぼけて言えば、彼は手を止め、嬉しそうにこちらに寄って来た。


例えば、私が何かを知らないと言うと、彼は笑顔を浮かべ、
例えば、涼太君とする何かが初めてだと言えば、嬉しいと、声に出して言う。
そうして、俺が教えてあげる、俺が俺がと、私に世話を焼いて甘やかし、ずっと、今まで、なんとびっくり10年以上!
10年とは、人間をちょっとばかし変えてしまうには十分すぎる時間だ。
テレビが無いと生きられな〜いと、嘆くその子からテレビを奪って10年間、
《テレビが無いこと》が日常平常、当たり前のことになる。
つまり、私にとっての涼太君はもうそれということで、これはとってもとっても恐ろしいことだ。

涼太君が私のそばにいること、
息をするのと同じこと。


「うそうそ、わかんないんスか、本当に!?えへへ、ならこのなんでもできちゃう万能スーパー涼太君が教えてさしあげちゃうっスよぉ!」
「あー、要らん、遠慮する。つか万能スーパー涼太君≠ト、はは、パチモンくさ。」
「ひ、ひど!酷いっス名前っち!」

辛辣だの冷たいだのと笑顔で騒ぎながら、私の肩にその端正な顔をぐりぐりと押し付けてくる。ええい女々しい、本当に色々と面倒臭い男だな。肩に乗っかる邪魔なそれをガスガス肘で殴ってもびくともしないし、逆に自分の方が痛くなってきたのでやめた。ふわふわのきいろが顎にかかる。

すると、涼太君の動きが収まっているのに気付いた。さっきまでは不平不満をそのでかい図体で表すのに全力だったのに、今は大人しくなったもので、私を抱きしめるのに集中しているようだ。

「涼太、」
「しっ!名前っち邪魔しないでくださいっス、俺のこの至福の時を!ああ名前っちちっちゃい‥‥良い匂いする‥‥可愛い‥‥ふわふわ‥‥ッぎゃん!?」

だんだん弄るように動き出したので、近くにあった鍋敷きでぶっ叩いてやった。顔で無く辛うじて頭を狙ったのだから、私の寛大な優しさに是非とも感謝して欲しい。

「い、痛い‥‥。」
「私に今絶賛月からの使者が来ていると知っての悪事か、貴様。」

ちょっと気持ち良いとか思ってしまった自分が嫌だ。

「今日2日目っスもんね、ぽんぽん痛い?」
「やめろやめろ触るな大の大人で性別男がぽんぽんとか言うなその前になんで知ってんだよきっしょくわりいなあもう!!?!」
「俺は名前っちのことで知らないことなんて無いんスよ〜?なんでも知ってるんス、なァんでも、ね。」
「なんでもを無駄に強調すんなよおっかないな‥‥あと語尾にハートつけないでちょ。」

このまま涼太君といちゃいちゃしていると大事な夕飯がでろでろに伸びちゃうので、さっさと席に座った。

「はい涼太君、量少なめでお願い。」
「やっぱあんまり調子良く無いんすね、名前っちが少なめだなんてそんな女の子みたいなこと‥‥。」
「あ?」
「なんでもないっスよお、はいどーぞ。」

こじんまりと盛り付けられたその皿を受け取り、結構な量ある残りは、全部涼太君のぺらぺらなそのお腹に入るらしい、すごいね。

「んふふ、こうゆうことしてると、なんか、新婚さんぽくないスか!?俺しあわせ〜。」
「きめえこと言ってないではよ食べましょう、
涼太君。」
「ほんと名前っち、にべも無いっていうか‥‥
うう、まあわかってたっスけど。」

ズビーっ、お行儀悪く音を立てて食べる私の向かいで、お上品にオサレにフォークでくるくるして食べる涼太君。刻みパセリなんかかけちゃってよお、どっから出したんだそんな洒落たもんはうちには無えぞ、ぽっけか、お前のぽっけから出したのか、味なんか変わんないだろうに、ったく腹立つデルモ野郎だな死ね。

「名前っち顔が険悪に‥‥まさかまた俺に対して死ねとか思ってた?」
「やだ思ってないわよー、スパゲッティ美味しいねえ、はは。」
「はいっス、名前っちが茹でたパスタが、名前っちがお湯沸かした鍋に袋入れてそれを開けてかけたソースと絡み合って最高っス!」
「嫌味だとしたらウザいし本音だとしてもキモいし、君はすごいな。」
「褒めてもらえて涼太くん嬉しいっス。」
「やっぱ死ね。」
「ん?」

たわいのない会話をだらだらとしながら、

「ねえ、名前っち?」
「なあに、涼太君?」

ああ嫌だなあ暴露たかなあ言われるかなあ。

「また学校休んだんスね。」


やっぱりか。
真っ直ぐこちらを見つめてくる涼太君からフイと視線を逸らして、皿の上のパスタをフォークでいじくりながら応える。

「‥‥うん、お腹痛かったからさ。」
「そっスか、それなら仕方無いっス。」
「ね。」


「ねえ、名前っち?」
「なあに、涼太君?」

「今まで数えて大学行かなかった日数どんぐらいっスか?もう単位駄目でしょ、駄目駄目でしょう?俺は別に、学校休むのが悪いことだなんてこれっぽっちも思って無いし、言ってないっス。ただ、これ以上、学校、通う意味有るんスかねえ?いや、無いっスね、完璧に完全に意味はゼロ。義務教育はとっくに終わったんだし、幸い、俺も名前っちのこと養っていけるぐらいもうお給料あるし。貯金も結構あるんスよ、こう見えて俺実直だから、へへ。ほらね、名前っちに不便はさせねえと思うっスよ。だからほら、何度も言ってるっスけど、好い加減俺と結婚しましょうよお。どうせ今だって半同棲みたいになってんだし、大丈夫、なあんも変わんねっスよ、ねえ?名前っちがなんで首を縦に振ってくんないのか、俺にはさっぱりわかんないっスもん。だって、名前っちが損すること、無いっスよ?うん、まったく。俺は名前っちのこと大大大大大大大好きだし、名前っちも、まあ、大好きでしょ?俺のこと。なら、」

「涼太君が居ないと、生きていけないよ。」

その言葉に、花が咲いたようにぱあっと顔を綻ばせる涼太君。
でしょでしょっと、テンションの高い女子高生みたいに、楽しそうにはしゃぐ。

確かに、涼太君の言葉にも私の言葉にも、
嘘偽りは無いのだけれど、


「まだ、結婚は早いんじゃなあい?」

「そうやって、」

はあ。
涼太君はため息を吐いた。

「いつも逃げるんだから。でも、」

かたかたと小刻みに震える私の手の甲に、
柔くフォークを突き立てて、

「逃がさないっスよお、名前っち。」


彼は、緩く高らかに宣言するのだ。





2015/03/18
もがけばもがくほど、
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