初めましては足で受けた。握手を求めて伸ばした手を彼は払い、私の足を蹴ったのだ。

「なぜ君に握手など求められねばならないのだ。」

その歳では随分と大人びた、違和感のある口調で彼より一つ歳の小さな私に彼は問うた。その頃からかもしれない、彼の他の人とは違う雰囲気に私が惹かれたのは。孤児院のおばさん達に「あの子と関わるのは良くないわよ」なんて言われたのにわざわざ何度も話しかける私に観念したのか、一年も経つ頃にはトムはなにも言わなくなっていた。

「君、」

「first name。」

「なんで名前なんかで呼ばなければならないんだ。」

「first name。」

「・・・first name。」

トムはいつも私のことを君、と呼んでいた。変に距離があるその言い方は好きではなかったし、なにより私はトムに好意を抱いていた。ただ単純に名前を呼んで欲しかった。今はどこにいるかも分からない、私の両親が付けた名前を。

「他の奴のとこで遊べ。」

少し不機嫌な声で彼は言った。いつもは何も言わないのに、と私が言えば「黙れ」と返された。そんな暴言を吐かれるのは日常茶飯事だし、それに、
「私、トムしか友達がいないよ。」

さも当然、という口調で言った私に目を丸くしたのは彼の方だった。トムと一緒にいるのが居心地のいい私にとって、他の人はどうでも良かった。トムは私の知らないことを沢山知っていたし、なにより不思議な力をもっていることを私は知っていた。トムが怒ったとき何故か相手が怪我をしたり、行方不明になったり、トムが優しいときは花が一つだけ天井から落ちてきたりした。私が「この間本で読んだ魔法使いみたい」とはしゃぐと、彼は馬鹿馬鹿しいと言っていたけれど。

「君、嘘つくのはいけないよ。」

「でも、トムと一緒にいたいもの。」

それにfirst nameだってば、と念を押すと彼は困ったような顔をした。今更一緒にいるのを拒む理由があるのかと頭を巡らせる。

「君がいくら考えても答えはでないだろうから、考えるのをやめた方がいい。」

とっても変な顔だ、とトムは笑った。人が真剣に考えているというのに、全くなんなんだ。

「君に退く気がないのなら、少し付き合ってくれないか。」

そう言うと彼は窓から外を見下ろした。下には沢山の人が行きかっている。

「見てごらん。」

優しく、でも何故か棘のある声で彼は言った。

「僕らは捨てられた子なのに、世の中には幸せな子もいるんだ。」

雨が降っている外では傘を差している人でいっぱいで、道はカラフルな傘が動いていた。小さな傘から大きな傘まで、様々な傘が行き交う歩道に向けて彼は小さな声をぶつけた。

「愛されて育つ子供たちには、僕らの気持ちは分からない。」

君にはまだ難しいかもしれないけど、とトムがこちらを見た。正直、トムの言いたいことは感覚では分かったような気がしたが、よくは分からなかった。

「でもね、トム。」

窓辺から銅像のように固まって動かない彼に、私はそっと、怒られるかもしれないとびくびくしながら頬に口付けた。そうしなければならないような気がして、トムがどこかに行ってしまう気がして、最近読んだ絵本の中に出てきた王子様がお姫様と結ばれるようにと行ったキスのように、私は彼の頬を奪った。突然のことに驚いたのは彼の方で、怒られると思ったのに目を開いたまま固まってしまった。

「私は、トムが、好きだよ。」




どれくらいしたのだろう、私はトムの手を握りながら「どこにも行かないで」と泣いていた。

「first name、僕は愛を知らない。でも、どこにも行かないよ。大丈夫、泣かないで。大丈夫だから。」

トムは私をあやしていた。珍しく焦った表情だった。私はそのまま寝てしまったのか、気付いたら自分の部屋のベッドの上だった。



次の日からも、トムは相変わらず私と一緒にいてくれて、沢山のことを教えてくれた。でも、その半年も経たないうちに彼は孤児院を出ることになってしまった。

「どこにも行かないんじゃなかったの。」

恨めしく言う私の頭を撫でながら、トムは「ごめん」と一言だけ言った。いつも通り遊びにきたのに、今日はいつも通りなのに、トムは明日からいないのだ。

「帰ってくる?」

「いや。」

「また色々教えてくれる?」

「ごめん。」

「どこに行くの?」

「・・・あのね、first name。僕は君の言うとおり、魔法使いだったんだ。」

私は驚いた。魔法使いなんて、本の中だけだと思っていた。トムはぽつりぽつりと、言葉を落とすように色々教えてくれた。ホグワーツという魔法学校に行くこと。もう孤児院には帰ってこれないこと。そして最後に、約束を守れなくてごめんと言われた。私はなるだけ泣かないように、相槌を打つので精一杯だった。

「あと一年したら、きっと、先生が迎えにくる。それか、ホグワーツから手紙が届くだろう。そうすれば、また一緒になれるから。」

泣かないでくれ、と言ったトムは心なしか泣いているように見えた。彼は私の手にいつ手に入れたのか分からない綺麗な花をくれ、最後のお別れを言うと、一人孤児院を出て行ってしまった。誰もいない部屋を見て私は我慢していたものが一気に溢れた。一年後に手紙など、先生など来ないことは分かっていた。私にはトムのような不思議な力はない。きっとトムにも分かっていたと思う。それでも彼は「また一緒になれる」と言ったのだ。本物の馬鹿だ。大嫌いだ。私をおいて一人いなくなってしまった。王子様とお姫様はずっと一緒なのに、幸せに暮らすのに、私だってトムとキスしたのに。いろんなことが頭をぐるぐると駆けて行き、私はどうしたら良いか分からなくなった。

幼い私には、トムが全てだった。



もし彼が今生きていたら、きっと八十も超えているだろう。病床で息絶えそうな私を見て、彼は笑うだろうか。あのとき貰った花の名がベルガモットだと知って、その花言葉が「一途な愛」だと知って、庭一面に埋めたことを知ったら笑うだろうか。結婚もせず、あなたがくれたこの花を手に握り締めて死んでいく私を、あなたは笑うだろうか。

Bergamot
私が息絶えた後、恋焦がれたあの人が私にキスをしたことを私は知る術もなかった。



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