財団の医療スタッフは最新鋭の医療器具を持って現在空条邸に向かってきている。明日の未明には到着するとジョセフに連絡が来ていた。
承太郎、ジョセフ、アヴドゥル、そして花京院の4名はその医療スタッフが来た後、直ぐにでも出立する予定だ。

承太郎は紫煙を燻らせながら冷えた月を見上げた。
いくらニコチンを摂取しても心臓の裏をちりちりと焦がすような焦燥感が消えない。昨日まで鬱陶しいほどに快活だった母親が死の淵に瀕して魘されている。倒れた母親を見て、承太郎はらしくもなく背筋が凍る感覚を味わった。
助ける方法は───ある。
しかし、その間にホリィはずっと熱にうかされるのだろうし、困難が予想される旅路、そしてそもそもDIOを倒せるのだろうかという───いや、無論、承太郎には負ける腹積もりはなく、倒す気概十分ではあるが、あくまで可能性として───不安など、気掛かりなことは尽きなかった。


(───今一番の気掛かりはあれか)


承太郎は灰皿に煙草を押し付けるとゆっくりとホリィの寝ている座敷へ向かった。
座敷に近付くにつれ、何か声が聞こえてくる。しかしそれは余りにも小さく、余りにも早口で、その上馴染みのない言語だったが為に、承太郎には何かの呪文にしか聞こえなかった。


(いや、実際に呪文なのか)


月明かりの差し込む部屋で、ホリィの手を祈るように両手で包みながら名前は必死に言葉を紡いでいた。時折、エイメンだとかイエスだとかマリアだとか聞こえてくる。座敷の前に立つ承太郎にも気付かないほど、彼女は集中していた。紡がれる言葉の意味も、紡ぐ行為の意味も、承太郎には理解できない。
しかし確実に分かったのは、出会って数日の女を、名字名前は顔面を蒼白にして心配しているという事実だった。


「名字、」

「っ! 空、条…くん…」


ただ声を掛けるだけでは無意味だろうと承太郎は名前の肩を引いてその名を呼んだ。
名前は驚いたように顔を上げ、定まらない視点を、時間を掛けて承太郎に合わせた。


「もう夜だぜ。いつまでやってるつもりだ?」

「……そんな、こんなに暗いなんて気付かなかった」


憑かれたように祈っていた名前を思い浮かべ、承太郎は眉をひそめた。もう少し早くに声を掛けるべきだった。


「そのようすじゃあまともに食事も摂ってねぇな。来い」

「いいよ、別に……食欲ないし。それに誰かがホリィさんの傍にいないと…」

「ジジイがいる。財団との連絡も一通り終わったみてぇだから直ぐこっちにくる」

「でも…───わっ」


痺れを切らした承太郎は名前の手を掴み無理矢理引っ立てた。掴んだ手首は軽く手で一週してしまえる程細く、承太郎はそれに驚くのと同時に、強引に扱ったことを一瞬後悔する。
しかし、こうでもしなければ彼女は動かないと分かっていたので、そのまま大股で部屋を出た。


「ちょ、空条くん……っ」


歩幅が違うのか、承太郎の重い足音一つに対して名前の軽い足音が幾つも響いた。


「承太郎と名前ちゃんか」

「ジジイ」


廊下の反対側からジョセフが歩いてきて承太郎は足を止めた。数秒遅れて彼の後ろについていた───というより引っ張られていたといった方が正しいが───名前も止まる。


「財団から連絡があった。明日のカイロ行きの便のチケットが、5枚、取れたと」


その言葉で背後の少女に緊張が走ったのを握っていた肌から承太郎は感じた。


「ジョ、ジョセフさん……私…」


明らかに狼狽が滲むか細い声が上がる。承太郎の巨躯の向こうで身を硬くする少女はいかにも哀れでジョセフは罪悪感に苛まれた。


「すまん、名前ちゃん。思わせ振りなことを言ってしまったのう。しかしわしは…」

「ジジイはお袋についてやっててくれ、名字はロクに飯もくってねぇんだ」


ジョセフの台詞を遮り、承太郎は再び名前を引っ張ってずんずんと歩き出した。
ジョセフの呆けた顔と背後の戸惑う気配を無視した承太郎が漸く足を止めたのは、空条邸の奥、人気の無い離れについたときだった。


「食え」


いつの間にか承太郎からパンを渡されていた名前は状況が飲み込めず目を白黒させて隣に座る承太郎を見た。
花京院が買ってきた。視線の意味を理解して承太郎が答えると名前はそうかと頷いただけでパンに手をつけようとはしない。
二人だけの空間に苦痛と同義のような沈黙が落ちる。空気が冷たく澄んでいるからなのか、月が酷く冴えた夜で、明かりもないのに細かな表情まで目につく。それが嫌で名前は顔を俯けた。
そして、沈黙を先に破ったのは承太郎だった。


「……さっきの話」

「!」

「どうするつもりなんだ」


承太郎は気付かないふりをした。
震えた肩にも、白くなるまで握られた指にも、わななきながら吐き出される吐息にも、全部気付かないふりをした。


「…………」

「…………」


再三の沈黙が訪れる。
しかし承太郎がまたそれを破ることはなかった。傍らの少女が、言葉を探していることを感じ取り、彼女が口を開くのをただひたすら待った。
それは途方もなく長く、しかしそれほど長くはない数秒の出来事だった。


「……怖い、よ」


絞り出すような声。それは紛れもなく不安に彩られていた。


「私、スタンドは使えるけど、喧嘩なんてしたことないし、一応生物学上は女の子だし、受験だってあるんだよ?それに、外国なんて行ったことないし、急に休学したらおじいちゃんたちだってびっくりするし、学校や両親に何て説明すればいいかも分かんないし、私やっぱり女の子だし、喧嘩なんてしたことないし、それから、それから……


…………やっぱり、すごく怖いよ」


背を丸めて、膝に顔を埋めて。名前は蚊の鳴くような声で呟いた。


「花京院くんと戦ったときも怖くてしかたなかった。私が狙われたわけじゃないのに、ただ、その場にいるだけだったのに。それなのに自分から戦いにでるなんて、これ何て無理ゲーなの?」


冗談めかして言った言葉もただただ虚しかった。
ジョセフに頼まれた。良ければ共に来てくれないかと。スタンド使いは多いほどいいのだと。
確かに、自分のスタンドの能力は戦闘で役立つだろう。その自覚は名前にもあった。攻撃を防ぐ結界。守り手の居ないジョースター一行に必要な人材だ。しかし、分かっていても簡単に頷くには事は重大過ぎた。


「分かってるの、行くのが正しいんだって。分かってるよ。でも、やっぱり怖くて、空条くんと一緒に行ったらきっと後悔すると思う」


無理もない、と承太郎は思う。本人が言うように名前は戦闘経験などまるでない女だし、そもそも承太郎と名前は赤の他人なのだ。それこそ先週まで、まともな会話すらしたことの無かった。
承太郎とて、自分の母親の命が懸かっている。利用できるものがあるなら利用したいし、名前にも同行して欲しいと少なからず思ってはいた。しかし、先刻、名前の細さを実感した途端、急速に罪悪感が膨らんだ。
自分は、このいかにも華奢な少女に命の駆け引きに参加するよう強要しようとしていたのだ。この、いっとう弱々しそうな背に、命の十字架を背負えと───そう、言おうとしたのだ。
同行を拒否する彼女を身勝手と断罪するよりも先に、身勝手にも己の都合を押しつけたのは自分たちなのだと気付いたのは、ほんの少し前のことだ。
故に、彼女が同行を拒否するのならば潔く退くつもりだった。


「───…でも、」


……だった、のに。


「ここで一緒に行かないで、普通の生活に戻っても、きっと後悔すると思う」


承太郎ははっとして名前の方を見た。彼女は相変わらず顔を埋めたままで、しかしはっきりとそう言った。


「もし行かないで、それで空条くんや花京院くんが怪我したり、死んじゃったりしたら、きっと、きっと……それこそ死ぬほど後悔する。結局どっちを選んでも後悔するの」


どうにもいかれないのだと、少女はぐずるようにこぼす。その様子を見て、母親とはぐれた迷子の子供のようだと、承太郎は思った。
この憐憫すら湧く少女にどんな言葉を与えるのが正解なのか、承太郎には果たして分かるわけがなかった。
彼という無骨な人間が出来ることは、己の内にある言葉を彼女に伝えてやることだけだ。


「……お前が行かないって言うのを、俺たちは咎める気はない。スタンドやDIOとは関係ない生活にもどるといい。だが、一緒に来るって言うのなら……お前も肚くくれ。覚悟を決めろ。生半可な覚悟しかしないならこっちから願い下げだ肚くくって、歯ぁ食いしばって、その足で踏ん張る覚悟があるのなら」







───俺が、名前を護ってやる




「───…!」


弾けるように少女の顔が上がった。
大きく見開かれた瞳は動揺という石を投げ込まれ波紋を描いて揺れる水面だ。
薄く開かれた唇は何度も音を紡ぐのに失敗し、熱の籠った吐息だけを溢す。
そうしている内に彼女は上手い言葉を言うことを諦めて唇で歪な弧を描いた。


泣きながら笑うような顔だった。



「……へんなの。守るのは、私の役目なのに」


震えた声音は童女のように稚拙な響きを湛えて承太郎のもとまで届く。
そのときになってやっと、承太郎は自分もまた如何に子供染みた発言をしたのかに気付いた。
……護る、などと。
幼な子の口約束のように単純で曖昧で、しかし酷くひたむきな。
そんなものが、まだ自分に残っていたのか。そんなものが似合う人間では無いことを自分自身が一番よく知っている。


だのに、


「空条くんが護ってくれるなら、少しぐらい怖くても、平気かなぁ…?」


目の前の女が、如何にも嬉しそうに少女の笑みを向けるから。




「……ああ。だから、安心、しろ」



らしくない。


本当に、らしくない。


きっと、──現実にはあり得ないことだが──今、この、名字名前と相対している自分自身を端から第三者として見ようものなら、白眼視は禁じえないだろう。
えもいわれぬ感情を覚えて承太郎は視線を名前から外した。
それはばつの悪さよりも穏やかで、しかし気恥ずかしさよりも始末の悪い───本当に形容のし難い感情だった。



「……ねぇ、」


くん、と学ランの裾が引かれた。
何だと承太郎が視線を滑らせると、彼の視界にすっと小指を立てた白い手が差し出された。




「……指切りしよう」



「───…餓鬼か」


酷く子供じみた言葉に、承太郎の胸中には呆れではない何が去来した。
返事の代わりに手を差し出すと、何が嬉しいのか名前はその笑みをいっそう深いものに変える。






「針でも何でも飲んでやるよ」




自分でも驚くくらい酷く優しい声音になった。だが、今のこの女にはこれぐらいが丁度いいのかもしれない。


子供の時分というものは、些細なものが酷く大切な宝物であるかのように思われて仕方がないものだ。それはビー玉であるとか、鳥の羽であるとか、とにかくそんなちっぽけなものだ。


だからだろう。





このちっぽけな約束や、控え目に絡んでくる白い小指、それから目の前の女。
それらが酷く尊いものに思えたのは、きっと、その所為に違いないのだ。
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