小一時間前に通ったばかりの道を逆行する。通学ラッシュを過ぎたこの時間、私は道のど真ん中を空条くんと二人で歩いている。あ、でも空条くんは花京院くんをかついでるから三人かもしれないかな、なんて。
そんな私たちの制服はボロボロだ。攻撃こそ避けたものの、空条くんも私も血やら粉塵やらがガッツリついているし、実はストッキングも伝線してしまっている。あーあ、これ新品だったのに。まあそんなこんな全部ひっくるめて奇妙な光景なのは自覚している。ううう、知り合いに見つかりませんように……!
「カモンベビィ ドゥーザロコモーション」
昨日と変わらず馬鹿でかい空条家からどこか上機嫌なホリィさんの歌声が聞こえてきた。なんて言うか、ああ日常に帰ってきたんだ、ってしみじみと思ってしまった。ホリィさんすごい。
「きゃっ、今承太郎ったら私のこと考えてる!今、心が通じ合ったか感覚があったわ!」
「考えてねーよ」
「お、お邪魔しまーす……」
上機嫌な気分に水を差すのは申し訳ないと思いつつ、無断で家に上がるわけにはいかないとホリィさんに声をかけた。
すみません、今の、見られてきっと恥ずかしいでしょうに。いや、本当にすみません。
「じょ、承太郎に名前ちゃん!?学校はどうしたの!?それにその恰好……!」
驚くホリィさんに少々、いや物凄い罪悪感が襲ってきた。そうですよね、私も空条くんも本当なら学校で勉強してるはずですもんね。間違っても保健室半壊とかしてませんよね。
私、正しい学生の在り方が分からなくなりそうです安西先生。
「二人ともボロボロで……それにそこの人血が出てるじゃない!どういうことなの!?ま、まさか……」
さっとホリィさんの顔が青ざめる。あ、まさかこれは保健室の先生と同じパターンなんだろうか。
「あ!あなホリィさん!これには海よりも深い訳がありまして!」
「おふくろには関係ねぇ」
何とか弁明を試みようとするも私の頑張りも虚しく空条くんがバッサリ会話を切ってしまった。空条くんは一方的にジョセフさんたちの居場所を聞いてどかどかと奥へ行ってしまう。何なのこの言葉のドッヂボール。
痛いよ、心が痛いよ空条くん……!
憂いの麗容、とでもいえばいいのだろうか。ホリィさんはその空条くんの背中を形容のできない表情で見つめている。その視線にどんな情が込められているのか母親ではない私にはきっと理解できないんだろう。いや、仮にもし私がホリィさんと同じように母親だったとして、それでも果たして理解できるのだろうか。
「あの、ホリィさん」
「あら、どうしたの名前ちゃん」
「空条くんは悪いこととかしていませんから!むしろ助けてくれたっていうか!」
「うふふ、私に気を遣ってくれてるの?ありがとう。でも大丈夫よ。承太郎が悪いことをする子じゃないって私はちゃーんと分かってるんだから」
「え、」
くすりと微笑まれて思わずどきりとしてしまった。
いい意味で子供っぽくて無邪気なホリィさんがこんな大人びた───そう、いっぱしの親として、すべてを理解しているように。或いはすべてを包み込むように、ともすればなにもかも分かってるうえで、敢えて傍らで何もすることなくただ静かに見守っているだけのように───…そう、そんな、いかにも母親然として笑うから、私は、
「───おい」
そんな私の感慨を裂いたのは随分と先へ行ってしまった空条くんだった。彼は足を止めて私とホリィさんのいるこちらを見ている。
「今朝から顔色があまり良くねーぜ。元気か?」
「イエーイ!ファインっ!サンキュ!」
先ほどの表情から一変して満面の笑みをたたえて空条くんにピースサインをするホリィさんに肩の力がどっと抜けた。ああ、これぞ私の知ってるホリィさんだ。
「ね?でしょ?」
我がことのように笑うホリィさんにこちらもつられて笑みがわいてくる。
「それはそうと、承太郎は行っちゃったわよ。名前ちゃんも早く行った方がいいわ。私はその間に着替えでも用意してるから」
「着替え、ですか?」
「学生鞄で隠してあるけどその制服、汚れちゃってるでしょ。さっきちょっと見えちゃった」
てへぺろ、ってするホリィさんまじ可愛い。いやまじパネェっす。
それにしてもうわ。見られてたのか。止血とかいろいろしたとき制服の前面にべっとりついちゃったんだよね。もう血がついておうふ!って言ってから2、30分は経ってるからもうこの制服は諦めてる。ううう、もうすぐ卒業だったんだけどな。
「おばさんの服で悪いんだけど、でも今の服よりはいくらかいいはずだからお願いね」
「おばさんだなんてそんな……!むしろそんなにお気を遣っていただいて」
「いいのいいの!私がしたくてしてることなんだから!」
このままだと延々日本人特有の(まあホリィさんはアメリカ人だけど人生の半分くらい日本にいるしいいんじゃない?)お礼の言い合いが続きそうなので適当なところで切り上げて空条くんの後を追う。
つやのある板張りの床を足早に進んでいるとどこかで添水が鳴った。
(いいなぁ、ホリィさんみたいなの)
何とも言えない安心感がある。
これは何と喩えればいいんだろう。上手い言葉が見つからなくてもどかしい。
すごくありふれていて、でもなにか、決して欠けてはならないもの。
(…………母の愛、とか)
つらつらと考えていると空条くんたちの声が聞こえてくる部屋があった。よかった。駆け足になりなりながら部屋に入っていくと、
「手遅れじゃ、こいつはもう助からん。あと数日の内に死ぬ」
真っ先に聞こえてきたセリフがそんなんだったせいで私は固まるしかなかった。
え、ちょ、え、冗談ですよね?今日エイプリルフールじゃないよ。カメラまわってんの?んで、空条くんの長い学ランの中から『ドッキリでした!』って看板的なのが出てくるんでしょ。それで私をプギャーwwwとかするんでしょ?いやそれはそれでシュールだけど、今大事なのはそこじゃない。
え、ちょっと、だって、そんな。
「どういうことですか!?そりゃあ空条くんが容赦もくそもなく花京院くんをフルボッコしましたけど!そんな、死ぬなんてたちの悪い冗談……!」
突然入ってきたからか部屋にいた三人の視線が私に集まる。それよりも花京院くんだって!いやまじ私なんて空気でいいから、ホント、まず状況を教えろください。
「ああ、名前ちゃんの言うとおり承太郎のせいではない。承太郎、名前ちゃん、これを見ろ、何故この男がDIOに忠誠を誓い、お前を殺しに来たのか。その理由がここにある!」
ジョセフさんが花京院くんの前髪を掻き上げる。そこには、
「……なに、これ。膿みたいな」
生理的嫌悪を感じて顔にしわが寄るのが分かった。
嫌だ。気持ち悪い。
花京院くんの額に、膿のような、いや蜘蛛か寄生虫にも見える、見ようによっては蕾にも見えなくもないけど───とにかく花京院くんの額にはよく分からないものが付いている。それが生きているかのようにひくひくと蠢いていて………………無理。
無理です無理無理絶対無理!なにこれ超気持ち悪い!
「肉の芽じゃ」
肉の芽。
それは度々話題に上がるDIOという人物の細胞から作られた一種のマインドコントロール装置のようなものだという。人間の脳に根を張り、DIOという人物に対し絶対の服従を強いるのだ。
そして根を張ると同時にじわじわと脳を破壊していく。
だからこそのジョセフさんの「手遅れだ」というセリフなんだろう。
「でも、その肉の芽?を取れば万事解決なんじゃないんですか?ただ引っこ抜くだけじゃ脳の負担をかけるっていうならせめて外科手術とかで、」
「いや、無理じゃ。肉の芽につかれてしまってはもう手立てはない。ただ黙って死を待つしか出来ることは……」
───ダンッ!
不意に空気に衝撃が走った。空条くんが、思いっきり柱に拳を叩き付けたのだ。
「! 空条くん!?」
「さっきから黙って聞いてりゃうだうだと。花京院はまだ死んじゃあいねーぜ!」
空条くんがスタンドを出し、がっとまだ意識の戻らない花京院くんの顔をつかむ。
おおう男前!じゃなくって!
もしかしなくても空条くんスタンドで引っこ抜く気!?いや待てそれどうよ!?脳だよ!脳!脳みそ!ブレイン!
そんな無造作に扱っていいもんじゃないって!
「止めろ承太郎!そいつは摘出しようとするやつに触手を伸ばし脳に入り込もうとするんだ!」
ジョセフさんが叫んだ瞬間、花京院くんの額にあった肉の芽から触手が伸び、空条くんに刺さった!そのまま触手は空条くんの皮膚の下をずるずると進んでいく。
ひいいいい!気持ち悪い!なにこれ超きもいよ!こんな触手プレイ薄い本も厚くなりませんって!
「脳に達する!手を離せJOJO!」
アヴドゥルさんがひどく焦った調子で叫ぶ。触手は皮膚の下を這いながら終には鎖骨まで達した。見ているだけで気持ち悪くて思わず同じ部分を両手で押さえしまう。
そのときだ───今まで気絶していた花京院くんが目覚めたのは。
「───!き……さま、は」
透き通るような色味をした目がこれでもかとばかりに見開かれている。状況がまるで分からないとその表情が語っている。
そりゃそうだよね、目が覚めたらドアップガチムチとかそうそうないよ。いやふざけましたすみません。
「動くなよ花京院、しくじればてめーの脳はお陀仏だ」
顔に這い上がってくる怒張。上げかけた悲鳴を喉の奥で堰き止めた。
駄目だ。空条くんの邪魔はできない。何億ものニューロンやら神経系やらの集合体である脳は数ミリの誤差でも命取りになる。
私も、ジョセフさんもアヴドゥルさんも息を詰めて徐々に引き抜かれていく芽を見ていた。
そして───
ずるり。
そんな音が聞こえた気がした。
「抜けたっ!?」
花京院くんの額から芽が抜けると同時に空条の体を這っていた触手も一気に引っ張られる。
摘出された芽はジョセフさんによって一瞬で灰に変わり、花京院くんは一命をとりとめた。
(よ、よかったぁ……!)
漸く呼吸のしかたを思い出したかのように私は大きく息を吐いた。疲れた。私が何かしたわけではないのになんか物凄く疲れた。
皆が安堵する中で花京院くんだけが納得できないような顔をしていた。
「待ってくれ、JOJO」
彼は困惑と焦りのないまぜになった声で部屋を出ていこうとしていた空条くんを呼び止めた。
肩越しに怪訝な顔をする空条が私の位置から見えた。恐らく花京院くんにもだ。
「何故、自分の命の危険を冒してまで私を助けた…?」
寧ろ私にはその疑問の方が謎だった。
実害を被ったとはいえ、人間はそう簡単に他人の命を見捨てるものだろうか。命を捨て置けないのはキリストだけではないだろう。
まあ、平和ボケしていると言われたらそこまでなんだろうけど。
「さあな」
空条くんは暫く花京院くんを見つめ、そしてまた私たちに背中を向けた。
だから私には、空条くんがどんな顔をしているか分からない。
「そこんとこだが、俺にもよくわからん」
じわり。
花京院くんの目元に涙が浮かぶ。彼は柳眉を情けなく寄せて、泣くのをこらえる子供のような顔になった。
いや、実際彼は───私も空条くんもだけど───まだ成人もしていない子供なんだ。
「花京院くん、このハンカチ使って」
「君は…」
「名字名前。花京院くんには感謝してるんだよ、私。君があのとき止血用にってハンカチ貸してくれたおかげで私は今ここで綺麗なハンカチを君に貸せるわけだし」
まああのハンカチ、結局空条くん使わなかったんだけどね。
冗談めかして言ったらとうとう花京院くんは膝に額を押し付けて嗚咽をもらし始めた。
不謹慎にも何だか酷く穏やかな気持ちになってしまい、私はその震える背中をゆっくりと撫でた。
大丈夫。誰も、その涙を咎めたりはしないよ。