片腹痛い。
そう言ってしまうと別の意味合いに聞こえてしまうだろうから何か違う言い方にした方が良い筈だ。
脇腹痛い。
些か語呂がすっきりしないがそれが適当だろうと彼女は考えた。
今朝彼女がテレビを見たとき、連日街を騒がせている凶悪な通り魔は未だ捕まらずにいた。今晩オフィスから出る間際に聞こえたラジオも然りだ。薄暗い通り。疎らな人波。家までは遠くはないが近くもなかった。
帰路に立つ最中、彼女の意識は何故か大通りから逸れて細い路地に向いた。
ここで彼女の名誉の為に言い訳をするならば、悪い予感は確かにあったのだ。否、この先の凶事を確信していたと言っても良い。
(……それでこのザマ)
腹部から流れる血は止まらない。なんとなく傷口に指を這わせればヌチリとした何かが指先に触れた。どこかぼこぼことしている気がする。彼女の脳裏に過ったのは小学校の理科の教科書に載っていた人体解剖図である。確か腸あたりがこんなぐあいにぼこぼこしていたはずだ。
腹は痛いわ血はぬめるわ。何よりも耐え難いのは不謹慎にもスーツの皺である。
何故路地に踏み込んだのかは彼女自身よく分かっていない。いつもこんな時間にあがるのだから別段家路を急いでいた訳ではないし、この路地を通っても近道にはなり得ないのだ。多分、そういう気分だった、それだけだ。
「あれ、君どうしたの?」
ビルで切断された細い夜空。そこに唐突且つ強引に入ってきた淡い金の月はそうのたまった。
「通り魔に、刺されまして」
月というのは些か詩的過ぎるか、そんなことを考えながら彼女は律儀に問いに対する答えを返した。本物の月やら遠くの電灯やらの逆光で最初ははっきりと見れなかったが、慣れれば淡い金色の髪はおろかエメラルドグリーンの瞳すら視認できた。それで彼女が分かったのは、彼が目を見張るほどの美青年であったということだ。
「通り魔?……ああ、さっきのあいつね」
せり上がってきた血で言葉は彼女の思うように続かない。しかし彼は彼女の表情から彼女の言いたいことを察したのかしゃがんで彼女の顔を覗き込んできた。
「さっき俺も襲われてさ。むかついたから殺っちゃった」
にこりと甘いマスクが至近距離で笑う。
「…綺麗な顔で凄いこと言いますね。一応私という人目?いや人耳があるんですが」
「え?でも君死ぬでしょ」
「えぇまぁこの出血だと確実にそうですけど」
「だったら良いんじゃない?別にさ」
「そんなことほざいてないで救急車呼んで下さいよ。目の前で人ひとり死にそうなんですよ」
「人が死にそうって言われてもねぇ……俺人ひとり殺ってきた後なんだけど。それに君なんか面白いし」
「どういう理屈ですか、どういう」
「君が死ぬまで君と喋ってようと思って。救急車呼んだらきっと邪魔されるし」
「えぇまあそれはご尤もですけれども、」
何だかんだで上手いこと丸められてしまったような気がして彼女は据わりの悪い感覚を覚えた。そろそろ指先が痺れてきた。いよいよ自分は死ぬらしい。
「そこな金髪の人、」
「ぷっ、なにその言い方」
「……名前知らないんで」
「シャルナークだよ、シャルで良い」
「んじゃシャルさん。私が死んだら警察とかに見付かる前に私のお財布の中身全部処分してもらえます?跡形もなく」
彼女の奇妙な頼みにシャルナークは楽しそうな顔のまま首をかしげた。
「何で?何かすごい秘密でもあるの?」
「いえ……運転免許の写真、無理矢理センター分けで撮らされたやつ、黒歴史なんです」
正直に暴露した彼女の言葉に一瞬驚いた後シャルナークは莞爾として微笑んだ。
「良いよ、さんざん笑った後に燃やしてあげる」
羽虫の呼気
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……貴方、最低ですね。