「2872円になります」


言われた金額を支払って紙のカバーをつけられた本を受け取った。参考書のついでにと思って買った本の方が高くつくことはままあることだ。本屋から出ると首筋に春の夕暮れの柔らかな冷気が触れて思わず縮こまってしまった。寒い。日も傾いてきたし早く帰宅してしまおう。明日から本格的に授業が始まるのにいきなり風邪をひいたりしたらたまったもんじゃない。


「え…」


帰宅しようと思考に沈んでいた意識を浮かび上がらせると見知らぬ景色が広がっていた。家路を急ぐ子供の姿も焼けた鉄めいた斜陽の橙も私は知っている。ただ、その町並みだけは、私の知っているものじゃない。どういうこと。
どくん。
心拍数が上昇していくのがいやなくらい鮮明にわかった。高校生にもなって迷子とか。いやそんなわけない。確かに私は人並み以上に道を覚えるのが下手だが──それを自覚しているからこそいつも同じ店を使うようにしているのだ。
怖くなってさっきまでいたはずの本屋を振り返れば、そこは見慣れた本屋がある。それに少しだけ安堵した。なんだ、ただのゲシュタルト崩壊か。いつも無意識に見ているだけの景色だから改めて意識したらいつもと違うように見えた、それだけか。全く、無駄な汗をかいたじゃないか。


「名前」

「あ、おかーさん。そっちは終わったの?」

「良さそうな教科書はあった?」

「まぁたぶん。使ってみないとわかんないけど何とかなるよ」


名前を呼ばれてそちらを向けば買い物袋を提げたお母さんがだった。お母さんを見て本気で安心するなんて、こんな感覚リアルに久々だ。
自覚するとあまりの情けなさに恥ずかしくなる。


「おかーさん寒いから早く帰りたいんだけど」

「同感」

「晩御飯作るのやだなぁ。お父さんが作ってくれてるといいんだけど」

「えー、日曜日だし寝てるんじゃない?」

「名前、ちょっとぱぱに電話してジャガイモ茹でとくよう言っといて」

「あいあい…………って、おとん出ないよ」


留守電につながったので一度電話を切ってもう一度リダイヤルした。プルルルル、ワンコール、プルルルル、ツーコール、プルルルル、スリー…

『もしもし、何?』

「あ、おとーさん?やっと出た。さっきも電話したのに出ないんだもん」

『取れなかったの』

「あいあい。おかーさんがジャガイモ茹でといてって、それだけ、もうすぐ帰るよ。え、今どこら辺かって?んーとね、」


……あれ。
此処がどこなのかわからない。全く知らない住宅街を歩いている。電柱に張られている地名も聞いたことのないものだ。もしかしたらお母さんが寄り道しているだけかもしれない。そう思って電話口のお父さんに目に入った地名を早口で伝えた。


『おー、結構近くじゃないか。気を付けてな。じゃ』

「え、近…っ、え、ちょっと!?」


引き留める間もなく切られた電話とその内容に混乱するしかない。ホント、どういうことなの。自宅までの道のりなら知ってって当然だし、その周囲の地理にだって明るくて当然だ。なのに全く分からないというのはホント、訳が分からない。
脳の裏側がちりちりと焦げつくような不快感と、それ以上に大きな、肋骨を内側から圧迫するように膨れ上がった不安とが全身を蝕む。


「名前、どうしたの?」

「な、なんでもない!」


お母さんと少しでも離れることが恐ろしく感じて私は早足で開いてしまったお母さんとの距離を縮めた。


「ねえお母さん」

「なに?」

「……やっぱなんでもない」


此処、どこ。流石にそう訊くことはできなくて。しかし代わりになるような婉曲した言い方も思い付かなくて、結局私はその質問を飲み込んだ。文系科目しか取り柄がないのに、これはこれで由々しき事態だ。まぁそれは今はあまり関係がないだろう。それよりも今は状況に追いつくことを優先しなければならない。お母さんは間違いなく家に向かっている。だけどこの家路は私の知らないものだ。そして、我が家はもうさほど遠くもないところまで来ている。単にお母さんがいつもと違う道を通って帰っているという可能性も捨てきれないが、耳慣れない地名のことを考えると違う気がする。


「ただいまー」

「おかえりー」


お母さんの声ではっと我に返った。気付くと私はいつもの習慣で郵便受けの中を確認していた。弾かれるようにして顔を上げれば、そこはいつもと変わらぬ、今朝私が出てきた我が家が建っている。無事に自宅についた。お父さんの様子もお母さんの態度もいたって普通だ。いつもと変わりない。やっぱり私の思い過ごしなのだろうか。だがいろいろなことを考えると道の違和感や見慣れぬ町並みが単なる記憶違いや度忘れの類とは違っている気がする。


「名前、コート部屋に片づけて手伝って」

「あ、うん」


間取りに変化はない。階段を上がって奥の突き当りにあるドアには間違いなく自分の名前の札が下がっている。入ってみると部屋も何ら変わりがない。ベッドも、クローゼットも、勉強机も、全部同じ。そう、全部同じでなくてはならないのに。


「……この制服、何」


私の高校の制服はブレザーだ。しかし、本来それが掛かってあるはずの場所にあったのは若竹色が鮮やかなセーラー服だ。机の上に山とあったはずの教科書類も消え去っている。


「お母さん!」

「名前、階段は静かに降りて頂戴」

「私の高校の制服ってどこ!?」


心臓の音を掻き消すように強く問うとガス台の前に立っていたお母さんは一瞬変な顔をし、それから声を上げて笑った。


「何勘違いしてるの。小学校の後は中学校でしょう。大中小の間になぜか高が入るけどそれは大と中の間」

「中、学校……?」

「あんたは明日から青春学園中等部の生徒でしょうに」

(せーしゅん学園中等部?)


お母さんの言葉に愕然とした。ちょっと待って、中学校なんてこの前卒業したじゃんか。高校受験して、私は地元の高校に無事入学した。
なのに明日から中学生?は?ちょ、え、これなんてドッキリ?
信じられない。あり得るわけがない。ただ、その青春学園とかいう学校の名前はどこかで聞いたことがある気がする。よくは思い出せないが自分が通っていた学校ではないことは確かだ。
けたたましい警鐘が響く。こちらを不思議そうに見やるお母さんの顔に返って不安を煽られる。
どくんどくんどくんどくんどくっ…──


ピーンポーン


「っ!」


不意になった呼び鈴に思わず全身がびくついた。その拍子に食卓の箸入れを倒してしまった。


「はーい!今出まーす!──何やってるの。ちゃんと洗っといてね」

「う、うん」


ぱたぱたと小走りで玄関に向かったお母さんを避けて転がった箸を拾う。指が思うように動いてくれなくて箸が指の間を滑り落ちる。ガチャリとドアを開く音に続いてあらー、とお母さんが声を上げるのが聞こえた。


「名前ー!ちょっと来なさーい!早くー」


お母さんが高らかに私を呼んだ。こちらはそんな気分ではないというのに。溜息を一つ浮いて私は玄関に向かった。
実はドッキリでした!、とかそんな展開を私は僅かながらに期待していたのかもしれない。


「あ、名前、こんばんは」

「……え、」


玄関口に立っていた少年に声をかけられたが私は言葉を返すことができなかった。ラフな格好だが、それすらお洒落に見えてしまうほど整った顔立ちの美少年だ。綺麗な薄茶色の髪は少し長めで、その顔には柔和な笑みが浮かんでいる。


(そんな……)


知ってる、私は彼を知っている。
ただ、私の記憶の中にいる彼は今よりも少しだけ大人びていて背も高くて、何より彼は紙媒体の中で生きている人だった。


「どうしたの名前、周助君がパイを持ってきてくれたの。あんたも黙ってないでお礼言いなさい」


(青春学園……しゅうすけ、不二、周助)


思い出した。それは『テニスの王子様』という漫画に出てくる学校だ。そこは件の漫画の主人公が通うことになる学校であり、今、目の前にいる彼も、不二周助もそこに通っている。


(……まさか、)


まさか、いやそんなはずない。脳裏に閃いたひとつの可能性を即座に否定したがどこかでその可能性を肯定する自分がいた。
高校生だったはずが中学生に逆戻りしていたこと、通うことになる学校の名前。なにより、目の前にいる不二周助の存在。
これらが示唆する現実は、


(──…若返り、トリップ)

「名前、どうしたの?顔が真っ青だよ!?」


少年が、不二周助が私の顔を覗き込んだ。日本人離れした、しかし確かに美しいサファイアめいた瞳が私を射抜く。

……かた、
かたかたかたかたかたかた


歯の根が合わない。寒気が止まらない。肌が粟立ち、それは瞬時に頭のてっへんまで走り抜けた。


「名前!?」


足に力が入らず思わず崩れ落ちた。
不二周助がそんな私の体を抱きとめた。その体温は紛れもなく本物で、私はただただ絶望するしかなかった。



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気づいたらシリアスになってた。おかしいな。
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