77 記念じゃ終わらせない
=====================
『お。来たね、君がミスタ唐木の忘れ形見か。』
「度を越して厳しい人」と学生の中で恐れられていた教授の声はどこまでも優しく、彼が、わたし自身に興味があったわけではなく、わたしの中に見え隠れする唐木先生の影にただ会いたかっただけなのだと、しみじみ感じさせられた。
自分だって「記念に会っとくか」くらいの気持ちでいたくせに、まったく期待されていないとわかれば、それはそれで悔しい。
『はじめまして。成田愛です。今日はよろしくお願いします。』 『うん。ああ、、、そうだね。とりあえず何か好きなのでいいから聴かせてよ。』 『はい。』
楽器ケースを空け、控えめな音で調音をする。
、、、何を弾いたら、この人の注意を引ける?
そんな嫌らしい考えを巡らせながら、同時に、ほんとに最近のわたしは邪念ばかりだなあと気がついて軽く落ち込む。うん、でも、まあ、仕方がない。元々わたしは無欲で純粋な人間でもないし、どちらかと言えば打算的な方だと自覚がある。
唐木先生に最後に指導して頂いた曲は、なんだったか、、、ああ、あれだ。昨年の今頃、ヤマケンくんと海を越えて再会した音楽祭で大失敗したあの曲。あれなら秋の文化祭のための候補曲として練習を始めていたからいけるかも?
フルで弾くのは無理だとしても、比較的短い第一楽章だけなら、、、、、そう思いついた瞬間に、頭の中を練習の際に使っていた譜面の映像が駆け抜けた。唐木先生の書いた鉛筆の走り書きや、インクのついた指で触ってついた小さな汚れ、そして何度もめくったせいでヘタって丸くなってしまったページの角まで鮮明に蘇える。
もちろん、先生に言われたことは、そんな映像と結びつけるまでもなく全て覚えている。
今なら弾ける。
背筋がザワっとして、自分の背後に唐木先生の気配を感じたような気がした。
prev next
back
|