73 正解を導くには、下地が必要。
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目の前で鳴るピアノの音に集中しながら、五線紙上にボールペンを走らせる。 狭いマンションの一室で行われる音あてゲームに、正直言えばわたしはほんの少しだけ疲れてきていた。
実は、こういうことをしている時のピアノという楽器がそれほど好きじゃない。
弦楽器や管楽器の奏者なら誰もが思うことなのだろうけど、平均律で調律されたそれらの音が重なったとき、たまに気持ち悪いというか、ムズムズするというか、違和感を感じるのだ。「この和音なら、真ん中の音はもう少し下に寄った方が気持ちがいいのに」みたいなことをいちいち思ってしまう。
ピアノ。秋田さんが弾いてるのとかを聞くのはあんなに気持ちがいいのになあ。今まで習ってきた和声の常識がぶっ飛んでしまうようなエキセントリックな音の組み合わせだって、明らかにぶつかる音(というか、あえてぶつけてる音)だって、どれもこれも気持ちが良かった。
・・・・・
「ね、成田さん、もう飽きた?」 「え!?そん、な事無い、です!、、、あの、、、でも、どうして、」 「まあいいわよ。今のところまでちょっと見せてみて。」
突然、心を見透かしたかのように先生に声をかけられて、心臓が跳ね上がる。 まずい。すんごい集中力を欠いた顔をしていたのだろうか。物を教わっている時に他のことを考えているだなんて、なんて失礼な態度だったんだろう!ありえないわ、わたし!!
目に見えて動揺するわたしの手元から五線紙を拾い上げると、うちの母よりも少し若いであろう先生が答え合わせをしていく。
「そうねえ、、、集中はできてないけど答えは書けてるのね。さすがにあなた耳がいいわ。絶対音感ってやつ?」
「絶対音感」と言われて、ついさっきヤマケンくんに聞かれた「鍋叩く音とかわかるんだろ?」という言葉が頭をよぎる。
「、、、でも、わたし鍋の音とかわからないです、、、」 「あはは、わたしもそんなのわからないわよ。」 「え!先生でもですか??」 「わからなくても、音楽やってくうえで困ったことは一度もないわ。」 「はあ、、、そういうもんなんでしょうか?」 「そうよ。これで成田さんが鍋の音当てて得意になってるような耳がいいだけの子だったら、ここから説教につなげたいところだけども、、、」
先生は短く爪の切り揃えられた綺麗な指先で五線紙を机の上に戻すと、紙の端っこにするするっと赤鉛筆で小さく花丸を書いてくれる。
「全問正解。まあ、あなたはたぶん問題ないでしょう。」 「あ、ありがとうございます。」 「例えばね、ここ。なんでここ、ラ♭って書いたの?」 「え?、、、ええと、それは、、、」 「ソ♯じゃダメなの?同じ音でしょ?」 「あの、、、でも、これは、Wの和音だか、ら、」 「そ、正解。もっと詳しく言うと、ここはc-mollからの借用で、モールドゥアー扱いでWの和音だからラ♭。よね?」
あまり深く考えてなかったけれども、確かにそうだ。感覚的に「これだ」と思って書いていたけれども、全て説明がつく。この音はラ♭でしかありえない。
わたしが返された五線紙を見ながら納得していると、先生はにっこりと笑って続けた。
「聴音の試験ってね、調の関係、和声の動き、楽典を理解した上で答えを書かないといけないの。」 「、、、はい。」 「これはあなたの音楽への理解度を調べるためのテストであって、音あてゲームをしているんじゃないのよ。わかるわよね?」 「はい、、、あの、スミマセンでした。さっきはほんとに集中できてません、でした。」 「いいのよ。あなたには向いてない作業だってわかってるから。」
先生はチラッと時計を見て時間が来たことを確認すると、「はい。今日はここまで。」と再度にっこり笑った。
筆記用具を片付けながら一人で脳内反省会を繰り返していると、窓を開けて換気をしながら先生が話しかけてきた。
「ねえ、でも、あなたほんとにこっちの大学を受験するの?」 「え?いや、まだわからないんですけれども。」 「あなたのとこの先生、相馬先生だったっけ?唐木先生のお弟子さんだかなんだかしらないけど大丈夫なの?」 「・・・・・。」 「こんなこと言うのもなんだけれども、あなたにコンクールばっかり出させて、聴音のことだって”芸大対策だけしといてください”とか言っちゃって、わたしは正直いけ好かないわ。」 「えっと、、、」 「単に自分の生徒に、コンクールのタイトルと、芸大主席っていうハクをつけて自分が満足したいだけに思えちゃうのよね。」 「そんなことは、、、たぶん、、、」
自分の師事する先生をディスられるのは、あまり気持ちのいいものではないのだけれども、それほど堪えていないのはきっとわたしにもどこかしらそういう心当たりがあるからなんだろうな。
「、、、あの、わたし、これで失礼します。」 「はーい。来週は火曜日になるから。時間は、、、また7時でいい?」 「はい。大丈夫です。お願いします。」 「あなた、まだ和音が少し弱いから、ここからここまで宿題。ちゃんとやっといてね。」 「はい。」
玄関まで見送りに来てくれた先生に深々と礼をして、マンションの扉を閉める。
むむむ。聴音、けっこう奥が深い。 先生に見透かされていた通り、音あてゲームとか思ってなめていた。 そして、唐木先生の後任である相馬先生、すこぶる評判悪い。
すぐに来たエレベーターに乗り込みながら、ついつい真顔になってしまう。
確かに、唐木先生が亡くなってからここ数ヶ月、わたしは条件が合いそうなコンクールに片っ端からエントリーされていた。ものによっては、本選に残れればオーケストラと共演できたりもするし、練習にもなるしいっかな?と思って言われるままに挑み続けているが、これは正直どうなんだろうか?
今までとは違うのだ。 もう唐木先生はいない。
わたしの理想と相馬先生の理想が同じだとは限らないのだから、先生に全てを委ねて盲信していては、気がついたら思ってたところとは全然違う場所に来ていたなんてこともありうるわけで。
自分で、どうしたらいいのか考えなくちゃいけない。
相馬先生に言われるがまま、芸大に入って主席卒業を目指すのだってもちろん悪くないはず。 悪くないどころか、それこそ芸大の主席なんて選ばれたほんの一握りの演奏者にしか成し得ないことで、わたしなんかじゃそれを期待される時点でおこがましい。そもそも数年前に思い描いていたわたしの理想の進路はそこじゃないか。 そして、完全に邪念だけれども、同じ都内の大学だってことになると嫌でもヤマケンくんの顔も浮かんでみたりもするわけで、、、
ほら、いいじゃない。国内の大学への進学。 いいよね?
そんなことを考えながらエントランスを抜けて外に出ると、すっかり夜になっていた。
すっかり暖かくなったと思っていたが、夜になればまだ少し肌寒い。 空を見上げれば、極限まで細くなった三日月が雲の間に見え隠れしている。
"成田さんは、オーストリアに留学する気はありませんか?"
"もしも一緒に来るのなら、今の君の環境よりは、ずっと音楽的な場所を用意してあげられると思うんだがね?"
"このフレーズは豊かに!そう!そうです成田さん!!"
"大事にするんです。もっと大事に。"
夜道をトボトボと一人で歩いていると、ご健在な頃の唐木先生の言葉ばかりが思い出されてしまう。 穏やかな人だった。それでいて、ものすごい純粋な音楽への情熱を内に秘めている人だった。
先生の声を最後に聞いたのはあの病室。
「さあ、成田さんレッスンを始めましょう!」とドイツ語の力強い発音でおっしゃった先生の魂は、きっと今でもウィーンにいる。
そして、わたしはその言葉に「はい」と即答したのだ。
だけど、
だけどさ、 いくら願っても、 もう一度ウィーンに戻っても、
そこに唐木先生はいない。
いないんだ。 もう誰もわたしに道を示してはくれない。 あの場所で、あのプレッシャーの中で、今度こそ、正真正銘ひとりぼっちで戦わなければならない。
まったく考えがまとまらないまま、家についてしまった。 チラチラとヤマケンくんの顔が浮かんでしまうあたり、本当に雑念だらけでため息が出てしまう。
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