63 ブラウニー
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「あなたには関係のないことです」と、彼女は言った。
普通、女にそんな言い方をされたらムカッときそうなもんだけれども、「どっかの誰かみたいな言い草だな」と思っただけで、不思議と腹は立たなかった。彼女が泣きそうな顔をしていたからってのもあるのだろうか?
さっきから具体的な返答はまったくしていない割に心の中がだだ漏れの成田サンから、とりあえず気になっていたことは確認できたし、あいつとはうまくはいかなかったみたいだし(ざまーみろ)、、、ここらへんで、話題を変えておくか。
入院しているじいさんのことを忘れさせようと関係ない話を振ったようなもんなのに、こちらの話題も彼女にとってはあまり楽しい話ではなかったらしい。触れられたくない感がありありだ。
おい、、、まさか、思い出したくないようなことをされたってわけじゃねえよな?
一瞬、妙な不安がよぎったものの、なんとなくあのピアノ講師は彼女を傷つけるようなことはしなそうだという直感を信じてこの話題は保留にすることにした。
押し黙ってしまった成田サンに、「それ、冷めるぞ。」と、食事の続きを促す。
「そういえば、正月に病院で慰問演奏するんだってな。」 「あ、、、そ、うなの。ええと、音女の友達と一緒に、」 「あれ?あんた、友達いたの?」 「い、いるよ?!ちゃんといるよ!発表会でだってお花もらってたじゃん!ヤマケンくん見たでしょ?!思い出してっ!」 「ああ、あと、ものすごい勢いで陰口叩かれてたのも見たな。」 「ああっ!そっちは忘れてっ!!」
どうやらうまく話を逸らせたようで、ホッとする。今度は何やら顔を真赤にして怒っているのだが、まあ、泣かれるよりはずっとマシだ。ついさっきバス停にいたときのような、心ここにあらずといった様子も影をひそめ、口数も増えてきたし、いつもの成田サン。とりあえずは、もう大丈夫だろう。
「で、なんかデザートは?」 「ええと、もしヤマケンくんが食べるなら。」 「オレはいらねえ。」 「あ、じゃあ、わたしもさっき頼んだ飲み物だけ、」 「まあ、そう言わずに食べとけば?さっきからチラチラとカウンターのブラウニー見てんの知ってんだけど。」 「そ、そんなこと、なっ、ないよ!?」
狼狽える成田サンを無視して、店員に食後の飲み物を持ってくるように頼みつつ、ブラウニーもひとつ追加する。
「あ、あり、がとう。」 「どーいたしまして。」
さっきまで空いていた店内が、にわかに活気付き始めた。もうすぐ一時か。
運ばれてきたコーヒーにミルクを落とし、入り口の壁掛け時計を眺めながらそんなことを思っていると、ジンジャーエールの氷をかき回しながら成田サンがおもむろに口を開いた。
「さっきね、」 「あ?」 「唐木先生と少しだけお話ができたの。」
うるさくなってきたと思っていた店内なのに、カランカラン、と氷がグラスに当たる音がやけに耳につく。 話の邪魔にならないよう相槌は打たず、目線を彼女に移すことで続きを促した。
「お話というか、一方的に言われただけなんだけども。」 「、、、なんて?」 「”さあ、成田さん、レッスンを始めましょう。”って。ドイツ語だった。」
そう言って引き続きストローをいじる彼女の表情をジッと伺ってみたが、表情は穏やかだし特に動揺しているような様子もない。
「先生は、今もウィーンにいるんだなあって。先生の中でのわたしも、日本じゃなくてウィーンにいるのよ。」 「、、、だから?」 「うん。戻ろうと思う。」 「あの、さ、」
なぜだかわからないが、引き止めようと思った。
最大の理解者が側にいても、ものすごいプレッシャーと、孤独感に押しつぶされて帰ってきたというのに、また、そこに戻る?今度はたった一人で?死にかけた恩師の脳内での自分が、それほどに重要なことなのか?
今度の慰問演奏がじいさんの耳に届いて、今度こそ正気づくかもよ、なんてオレらしくもない「ファンタジー」まで思い浮かんだ。
でも、きっとこれは彼女には響かない。
一瞬出かかった白々しい言葉を飲み込むかのように、コーヒーカップに口をつける。
自分の恩師がもう二度と声をかけてくれることがないということは、たぶん彼女が一番よくわかっている。
そして、成田サンのそういう変に冷静というか、現実的なところを、 ずっと前から好ましく思ってる自分がいることも確かなのだ。
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