60 離人症。
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この数週間、目を合わせることすらできない唐木先生を毎日見舞い続けた。
元々小柄だった先生の体が日に日に小さくなっていくのを確認し、呼吸するたびに微かに上下する白い布団を眺めているだけの時間は、ただでさえヤワな精神力をガリガリと削り続ける。
回復することのない患者を見舞うのが、こんなにも虚しいものだとは。死と向き合うというのは、わたしみたいな若輩者では想像すらつかない深さを持っていた。死の向こうには何があるんだろうか?宗教にすがり、その先にある「何か」を創造し救いを求める人の気持ちが少しわかるような気がする。
このまま何のケジメもつかないまま、先生とお別れすることになるんではないかとぼんやりと思ってみたり、そもそもケジメってなんだ?先生にお別れを言えたからなんだというんだ?と、自棄になってみたり。
そんなわたしを、心配してくれたのだと思う。秋田さんは殺人的なハードスケジュールの隙間を見つけて、「俺も先生に挨拶したいな。」と病院についてきてくれた。
昨年の春にやった演奏会で伴奏をしてくれた際に、確かに秋田さんと唐木先生は何やらいろいろお話をしていたようだけども、病院にお見舞いに行くほどに懇意にしていたかというとそうでもない。
単に、満身創痍でグラグラなわたしの背中を支えるためだけに来てくれたんだという事実を噛みしめつつ、本当にありがたくて泣きそうで、そして、そんな秋田さんの気持ちに応えられない自分を不甲斐なく思う。
そもそも、なんでわたしのことなんて好きなのかな?こんなに優しくてかっこいい人だ。おまけにミュージシャンとしても一流。もっと大人で素敵な女性から引く手あまたであろうに。
やっぱり近くにいて、わたしがあんまり頼りないもんだから庇護欲的なあれなんだろうか?
そんな失礼なことを思うわたしを、最後にはやはり秋田さんが優しく解放してくれた。手元でジタバタするわたしにかすり傷ひとつつかないように、そっと手放す。
わたしがもう少し大人だったら。もしくは、秋田さんがもう少しだけ子どもで、強引にわたしに「傷」をつけてくれたりしたのなら、この関係にはもう少し違う結末があったんだろうか?
そんな、始まらなかった恋のことを、終わってしまった恋の相手であるヤマケンくんの隣でグルグル考える。
ああ、でも、「気持ちは伝えなかったらなかったことにされてしまう」という話を、そういえば秋田さんがしていたな。だとすると、わたしの恋も「終わってしまった」のではなく「始まりもしなかった」のか。
唐木先生のことも、恋のことも、どこか他人事のように冷静に分析してしまう自分に気がついて、ちょっとまずいな、と思った。
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