58 最短距離
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聞いた病室番号を頭の中で復唱しながら、院内を歩く。
それにしても、行ってどうするつもりだ?
そこにいるのは成田サン一人じゃない。あのピアノ講師がしっかりと付き添っている。オレが行ったところで単なる邪魔者じゃないのか?
考えれば考える程、今の自分の行動が間違っているとしか思えないのだが、なぜか足は止まらず。いつもなら目的地にはなかなか着かないことがほとんどだというのに、おそらく最短距離でその番号のついた扉の前に辿り着いてしまった。
年末で、しかも朝一で、人気のあまりない入院病棟。特にこのあたりは意識もない患者がほとんどのため、脈を示す電子音だけが白い廊下に響き渡っている。
いくつもいくつも。
この電子音の数だけ、繋ぎ止められている命があるのか。
扉についたプレートは一枚。一人部屋、ということは中には眠っている患者とあの二人のみ。確実にオレは招かれざる客というわけだ。ああ、なんだよ、さっきからどこを通っても同じ答えにしか辿り着かねえ。
そのとき、延々とループを続ける思考回路を絶ち切るかのように、白い扉の向こうから「あ!」という小さな叫び声が聞こえた。
何かあったのかと、思わず反射でノックと同時に扉を開ける。
そこには、ベットにすがり付いた状態の成田愛と、しっかりと眼を開けて彼女を見つめる老人の姿があった。夏に見た時とは別人のように細く、小さくなってはいるが、確かにあのじいさんだった。
「せ、先生?わかりますか?成田です!わかりますか?わ、、、わたし、あの、」
必死で呼び掛ける彼女の言葉を、末期患者とはとても思えない強い眼差しで遮ると、老人は震える手で自分の呼吸器を外して彼女に何か囁いた。
「はい、、、はい、わかりました。」 泣き声に近い声色で、成田愛が相槌を打つ。
それを眺めながら満足そうに微笑んだかと思うと、急に咳こみ始め、背後にあるモニターから出る電子音の速度が一気に上昇した。
まずい、急変だ、
「どけ、人を呼ぶ!」
早足でベッドサイドまで駆け寄りナースコールを押すと、呆然としている成田サンを下がらせ、ピアノ講師に押し付ける。
小さなスピーカーから聞こえる「どうされました?」という落ち着いた看護師の声に、「少し話をした後に激しく咳込んで、心電図モニターにも乱れがあります。脈拍も、かなり速い、」と、そこまで答えてから後ろにいる二人に「他に何かあるか?」と確認をすれば、崩れ落ちそうな様子の成田愛の肩を抱いたピアノ講師が首を横に振った。
とりあえず、人は呼んだ。 後はなんだ?呼吸器か?
咳込んだ拍子に、完全に外れてダラリと垂れ下がったそれを急いで拾い上げると、患者の背中を擦りながら口元にあてがう。
早く来い!担当医、いや、看護師でもいいから、早く!!
廊下からバタバタと複数の足音が聞こえ、飛び込むように入ってきた看護師の姿に心底ほっとする。「あとはお願いします。」と声をかけるとすぐに場所を明け渡した。
もう、ここから先、オレらは部外者だ。
次々と病室に入ってくる関係者達の邪魔にならないよう二人を連れて廊下へ出ると、青ざめた顔をした成田愛を椅子に座らせる。スカートを握りしめる手が、小さく震えているのが痛々しい。その手をとって震えを抑えてやりたいなんて気持ちがないわけじゃないが、それはオレの役目じゃねーからな、と、少し離れた場所で壁にもたれて腕を組んだ。
退室と同時にぴったりと閉じられた個室の扉の向こうでは、慌ただしく医師たちが対応しているだろうに。少し離れたこの場所では、相変わらずの電子音だけが響いている。
いくつも、いくつも。
同じテンポで刻まれるその音が、さっきよりも重たく聞こえるのは気のせいか?
そして、時々漏れ聞こえる、少し離れた場所にいる二人の囁くような話し声。
ピアノ講師の声はそのトーンの低さゆえ、まったく何を言ってるのかわからないものの、成田愛の声は小声でもよく通る。
顔色は真っ青なくせに、ガタガタと震えているくせに、以前にも聞いたことがあるような意思の強い凛とした口調で、確かにこう言ったんだ。
「わたし、ウィーンに戻ります。」
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