ウミノアカリ | ナノ



53 マボロシ
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母にもう少し居たいから先に帰ってくれと言うと、心配そうな顔をしながらもちょうど帰宅する先生の奥さまと二人で病室を出ていった。

ベットに横たわる唐木先生を見つめながら、本当にこの人がつい最近、夏まで一緒に暮らしていた人なんだろうか?と何か幻を見ているような気持ちになる。

それとも、あのウィーンでの日々が幻だったのか。

先生は、まだ意識がハッキリしている段階で、もしもの場合、胃瘻の造設等の延命措置はしないでくれとおっしゃっていたらしい。胃瘻というのは、胃に直接チューブを入れて栄養を摂取させる処置のことらしいのだが、それはつまり、自分で物が食べれなくなったらオシマイということだ。今現在、先生は点滴で水分だけは補給されているが、栄養らしきものは何も摂取できてない。つまりこのまま、すこしづつ衰弱して、植物が枯れていくように亡くなっていく。回復することはない。これは決定事項だ。

茫然自失のままベットの横の椅子に座っていると、目の前の事実だけが迫ってくる。恐ろしい。恐ろしくてたまらない。なぜか利き手がブルブルと震えてきた。胃瘻でもなんでも、したらいいじゃないか。栄養を入れなかったら死んでしまうんでしょ?ということは、栄養を入れたら生きていられるってことじゃない。先生がそれで生きていられるならすればいいのに。そうしないと、、、わたしは二度と先生に会えなくなる。

訳のわからない激しい感情をグッと抑えるかのように、震える右手を爪の痕がつくほど握りしめる。

と、そのとき、扉が開いて点滴の替えを手にした看護師と白衣の医師が入ってくるのが視界に入った。

「おや?ええと、、、確か成田さん。だったかな?」

自分の名前を呼ばれて我にかえると、視界に入ってきたのはストックホルムでお世話になったヤマケンくんのお父さん、山口先生だった。

「や、やまぐち、せんせ、、、」

出てきた声は自分でも驚くほど、震えてかすれている。そんな取り乱した様子を見ても、先生はまるで顔色を変えない。わたしを見つめる眼鏡越しの瞳には、こういう場面を数えきれないほど経験してきた人にしかない包容力が感じられた。

「こないだうちの病院に転院してきた時にはびっくりしたよ。旅先で診た患者さんにこんな形で再会するとは思ってもみなかったからね。」
「唐木先生の病状は、、、」
「日本に戻って精密検査を受けた際、末期癌が見つかったようでね。唐木さんはまだお若い。場所によっては外科手術にも十分耐えられるはずだったが、いかんせん転移した箇所が多すぎたようでね、、、せめて、持病さえなければ他にも打つ手はあったかもしれんが、、、残念だよ。」
「そう、、、ですか。」
「申し訳ないが今の私たちにできるのは、なるべく痛みを取りながら、安らかに眠るお手伝いをすることだけなんだ。」
「あの!でも、まだ延命措置とかできることがいろいろ、」

すがるように言ったわたしの言葉を遮り、山口先生は「こればかりは、本人の意思を一番に尊重するべきだと思わないかい?」と静かにおっしゃった。

「幸いもうすぐ冬休みだ。また時間を見つけてお見舞いにいらっしゃい。」
「、、、はい。」
「唐木さんはとても強い人でね。この状態でもまだ、言葉を発せるほどに意識がはっきりしているときがある。」
「・・・・・。」
「運が良ければ、お別れをきちんと言えるかもしれないよ。」

山口先生はそう言って肩をポンと叩くと、ひと通りの計器を確認した後、病室から出て行った。

コツコツと廊下に響く足音が遠くなってから、未だにわたしを見てはくれない唐木先生に一礼をし、病室を後にした。


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