52 かの音。
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「そういえば愛、こないだ電話であったコンクールのお話、返事はどうするの?」
瀕死の状態で窓の外を見ていたところ、隣に座っていた母が突然しゃべりだしたのでビックリして膝に乗せていた鞄をグッと手元に引き寄せた。秋田さんのことでいっぱいになっていた頭をブンブンと振って、母さんの顔をチラリと覗き見る。
「あ、あの話は、、、今の状況じゃ無理だよ。レッスンも再開できてないし。」 「紹介して頂いてる先生のところには、まだ行く気はないの?」 「分かってはいるけど、、、ちょっと。」 「、、、お母さんね、愛が唐木先生を慕っている気持ちは十分わかるけど、だからこそ、そろそろきちんと覚悟するべきだと思うの。」
今まで、わたしの進路やらに何も口出ししなかった母さんが言う言葉だからこそ、ドキリとする。
「、、、覚悟?」 「そう。あなたの夢は何?あなたはこれからどうなりたいの??そのためにはどうすればいいと思う?」
わたしの夢。 音楽家、、、なのかな?
プレイヤーでも、指導者でも、とにかくわたしはこれからも、、、楽器を弾いて生きていきたい。
そのためには、
「もっと、自由に楽器が弾けるようにならなくちゃいけない、、、と思う。」 「そうなるために、あなたは何をしたらいいの?」 「もっと、、、もっともっと、勉強しなくちゃいけない。」 「そうよね。それは、今の状況でできてるのかしら?」 「それは、、、」
いつになく畳み掛けるような口調の母に押され、次のことばを言い淀んだそのとき、タクシーはちょうど病院の入り口に到着した。支払いをする母を置いて、一足先に逃げるように車から降りる。
確かに母さんの言う通り、本当ならこんな空白の時間を過ごしている場合ではない。
でも、今更他の先生に師事するという選択肢は、わたしにとってあまりにも非現実的だ。まだまだ唐木先生から学びたいことは山のようにあるのに、どうして他の先生につかなければいけないのか。
つい最近、唐木先生から紹介されていた新しい指導者の方から、春にあるコンクールにエントリーしないかというお話がきていた。まだその先生に会ったこともないというのに、そんなの無理に決まっている。そもそも国内のコンクールで良い成績を収めるということに、今となってはわたしは何の魅力も感じないのだ。
どうせなら、
そうだ、どうせなら、
もう一度あの場所に戻りたい。ウィーンの音楽院。 真綿で首を絞められるようなプレッシャーの中、それでもそこに鳴り響く音楽は素晴らしかった。
ミシェルは元気だろうか?相変わらず華やかな音色で楽器を鳴らしているのだろうか?アレクセイの中低音。耳元でゆっくりと話をするような、説得力のあるあの音は今もあのアパートメントの中庭に響いているのだろうか?
唐木先生の体調がよくなったら、また戻れるのかな? 、、、さすがに、体力的にも海外生活はもう無理だよね。 だとすると、やっぱり当初の予定通り芸大受験をとりあえずの目標とするべきか、、、
支払いを終えた母と一緒に病院に入ると、受付で入院病棟への行き方を確認する。といっても、わたしは母の後ろでぼんやりと聞いているだけだ。大きなクリスマスツリーがロビーを占拠しているのを見て、もうすぐクリスマスなんだなあ、なんて思う。
教わった通りのエレベーターに乗り、部屋番号をチェックしてから扉をノックすると、「どうぞ」と、唐木先生の奥さまの声がした。先生は寝てるのかな?タイミング悪かったなあ、なんてことを考えながら、小さな声で挨拶をしつつ扉を開けた。
「こんにちは、、、成田です。あの、お見舞いに、、、」
思わず絶句。
病室にいた唐木先生の身体にはあらゆる箇所に管が取り付けられ、母さんが奥さまにお見舞いの品を渡し、少し長めの世間話が終わってもなお、先生の焦点の合わないぼんやりとした瞳にわたしが映ることはなかった。
母さんの言っていた「覚悟」の意味を、ようやく理解する。
唐木先生は、もうわたしに道を示してはくれないのだ。
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