32 プライオリティ
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ああ、ビックリした。まさかこんな場所に愛ちゃんが来るなんて。
レコーディングが佳境に入り、自宅に帰れなくなってから今日で早5日目。近くに住んでる瀬野くんのアパートにシャワーを借りに行く以外はずっとこのスタジオに篭りっきりという酷い生活ゆえに、とうとう幻覚が見えたのかと思った。
今思うのは、とりあえず顔洗いたい。つか、ヒゲ剃りたい。ああ、服も着替えたい。俺臭わないかな、大丈夫かな?とりあえず、ヒゲだけでも、、、
ふと、隣に座ってコンソールの操作をしているエンジニアの瀬野くんに「今のうちにヒゲ剃ってきていい?」と聞いてみたところ、心底嫌そうな顔をして「ダメに決まってるじゃないっすか。」と即答された。そりゃそうだ。
出来上がったばかりの仮ミックスを、さっき愛ちゃんと一緒にやってきたリコと振付師の先生が怖い顔して確認してる間、チラリと後ろのソファを見れば制服姿の愛ちゃんと山口くん。愛ちゃんのセーラー服姿、久しぶりだわあ。そして山口くん相変わらずのイケメン。ふと、ソファの横に立てかけてある楽器ケースが目に入り、疲れた身体が少しだけ軽くなる。
こんな時間に山口くんと、どこに行ってたんだろう、、、なんてのは、ひとまず置いておくとして、とりあえず良かった。楽器は再開できてるんだな。制服姿ということは、学校の授業で弾いてきたのだろうか?前に見たときよりも心無しか地に足の着いたスッキリした顔をしているように思える。
こないだ山口くんに「後はよろしくお願いします」なんて言われたものの、結局、あれから今まで俺は何もしていない。というか、こればっかりは他人がどうこう出来る問題じゃないということを、知っているんだよ、経験上。
ヤダヤダ、大人になるというのは、合理的っていうのは、なんてつまらないんだろう。自分の感情に素直に従い、相手に何の腹の足しにもならない「優しさ」や「思いやりを」押し付けられるような、そんな若さが俺にも少し残ってたら良かったのにな。
とりあえず、だ。興味津々でスタジオの機材を見回していた彼女が、今は真剣な顔をして俺の曲を聴いているわけで。まったく方向性も違う現場だし、こんなことで彼女の音楽へのモチベーションが上がるとは思ってないけど、なんかしら、良い影響を与えられるくらいのことはありますように。
ボケーッとそんなことを考えている間に、曲のリプレイが終わった。
「これでほぼ完成。後は、後半部分にシンセでストリングス足してみようかな、くらいな感じだけど。どうでしょね?」
ハッキリ言って自信作。「どう?」とか聞きながらも、否定される気はまるでなかったわけだが、リコと一緒に来ていた、今回の振り付けを担当するダンサーのお姉さんから思わぬ反応が返ってきたため、ピキリと笑顔が固まる。
「あのね、大サビに入る前のブレイクで、フォーメーションチェンジしたいの。だからもう少しブレイクを長めに取れないかしら?」
、、、は?
「えーと、、、今から、変更?確か打ち合わせでは、一瞬音が途切れる箇所があればオーケーって話だったと、、、」 「確かにそれでもいいんだけど、せっかくホールでのライブも決まったし、もうちょっと動きを大きくしたいんです。」 「・・・・・」 「無理でしょうか?そういうのって、編集で簡単にできるんですよね?」
い、、、いやー、無理でしょうか?って、もちろん無理じゃないですよ。元々、まったくの無音のブレイクがあるわけだから、実際の作業としては、ディスプレイ上に表示された音声信号の波形に、チョチョイと必要な拍分の余白を足せばいいだけだ。
だけど、もちろん曲のバランスは総崩れ。
こんなことを平気で言ってくるくらいだし、きっとそこいらへんは彼女にとってまったく重要じゃないんだろうな、と絶望的な気持ちになる。だってわかるもん。俺だって、サビのときにリコやバックダンサーがどの位置に立っていようがまるで気にならない。なんなら終始、横一列に並んで歌ってくれたってかまわねーよ。作曲者とダンサーとでは、優先順位が異なるのなんて当たり前のことだ。
どこいらへんが落としどころなのかなあと、苦笑いで固まっていると、俺よりも先にエンジニアの瀬野くんがキレた。
「何言ってるんすか!確かに空白大きくすることくらい簡単にできますけど、そんなことしたら曲が台無しですよ?」 「でも、ここで拍数を稼げれば、かなり見栄えのする動きが入れられるんです!」 「は?見栄えのする動きの代わりに、音楽性捨てろって言うんすか?」 「あー、えーと、、、瀬野くんストップ。」 「秋田さん!?」 「いや、確かにこのままブレイクだけ大きくするのは無理です。曲がそこで止まります。」 「ですよね!!」 「でも、、、やります。何拍必要ですか?」 「ちょっ!?」
信じられないという顔でこちらを凝視する瀬野くんの視線が痛い。でも、瀬野くんありがとう。キミが俺の代わりに先にキレてくれたおかげで、冷静になれたわ。
だって、しょうがないじゃん。
さっきからリコが黙っている。彼女はあの若さでありながら冷静に全体像を見わたせる、セルフプロデュースの鬼だ。音楽的にも優れた審美眼をしっかり持っている。なのにこの無茶ぶりを止めないってことは、、、必要なんでしょ?トータルで見て、その振り付け、というか演出が。
突然のアレンジ変更が決まり、騒がしくなった周りを他人事のように眺めながら「さて、どうやってその拍数を稼ごうか」と思案する。ふとアゴをなでるとジャリジャリとした手触り。
ああ、、、とりあえずヒゲ剃りてえなあ。
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